土地勘のない私には説明しにくいのですが、剣崎町の小島鉄工所の西300mの所です。
どう見ても、大きな家のアプローチの植え込みなんですが。
そこに、いろいろな石造物が並べられています。
如意輪観音の後方に、「鳴熊神社」という札の掛かったお社があります。
そこに建っている史跡看板を読んでみましょう。
ここには「剣崎小路城」の支城と伝わる単郭の屋敷があったということです。
その屋敷「鳴熊城」の図と、Google Earthの写真を並べてみました。
たしかに、城跡という感じではないですね。
「鳴熊城」について、「新編高崎市史資料編3」にはこう書かれています。
近くに、本城である「剣崎小路城」の跡があるというので、そちらへも行ってみました。
城跡だという「御嶽山神社」は「鳴熊神社」の北東400mほど、群馬八幡-剣崎線添いにあります。
石段を上ると、大きな「御嶽山座王大権現」碑が建っています。
碑の前に説明看板が建っていました。
しかし、「新編高崎市史資料編3」の付図を見ると、「御嶽山神社」と「剣崎小路城」とは、まったく違った場所になっています。
そして「剣崎小路城」については、こう書いてあります。
ということで、幻の剣崎古城址巡りでありました。
どう見ても、大きな家のアプローチの植え込みなんですが。
そこに、いろいろな石造物が並べられています。
如意輪観音の後方に、「鳴熊神社」という札の掛かったお社があります。
そこに建っている史跡看板を読んでみましょう。
ここには「剣崎小路城」の支城と伝わる単郭の屋敷があったということです。
その屋敷「鳴熊城」の図と、Google Earthの写真を並べてみました。
たしかに、城跡という感じではないですね。
「鳴熊城」について、「新編高崎市史資料編3」にはこう書かれています。
「 | ここは福田氏の城とされているが、福田忠政が永正四年(1507)関東管領上杉顕定の招きに応じて、武蔵国児玉郡福田村から下板鼻鳴熊の地に移り、その子加賀守信義が倉賀野十六騎の筆頭になったと伝えられている。 |
信義は倉賀野落城後、ここに戻り武田方となり「板鼻陣箕輪先駆相勤め」(上野志)、その功として永禄九年(1566)頃藤塚を与えられて移った。 | |
それまでここを拠点としていたのであろう。」 |
近くに、本城である「剣崎小路城」の跡があるというので、そちらへも行ってみました。
城跡だという「御嶽山神社」は「鳴熊神社」の北東400mほど、群馬八幡-剣崎線添いにあります。
石段を上ると、大きな「御嶽山座王大権現」碑が建っています。
碑の前に説明看板が建っていました。
しかし、「新編高崎市史資料編3」の付図を見ると、「御嶽山神社」と「剣崎小路城」とは、まったく違った場所になっています。
そして「剣崎小路城」については、こう書いてあります。
「 | 現在完全に消滅し、その場所の推定さえ困難である。 |
大聖護国寺の東南にあり、この寺のある丘を背負う形になっている。 | |
わざわざ丘の上をやめて平地に構えている点、八幡館とは逆に作戦的配慮の薄い築城と考えられる。(略) | |
丘を背にした中世館から近世陣屋へ移っていったのであろうか。」 |
ということで、幻の剣崎古城址巡りでありました。
【鳴熊神社】
【御嶽山神社】
【剣崎小路城跡】