「中豊岡の道しるべ」が建っていたであろう辻から北へ200mほど行くと、「お堂踏切」という面白い名前の踏切があります。
それを見たせいか、踏切を渡った左角の建物が何となくお堂っぽく見えてしまいます。
しかしその感覚は間違いではなかったようで。
建物には「下台公民館」という看板が掛かっていますが、そこにある石碑には「薬師堂」云々と刻まれています。
もとは「薬師堂」だったのでしょう。
よく見ると、前庭に香炉と花立てが備わっていました。
公民館の裏と左側は墓地になっていて、道路に面して史跡看板が建っています。
ちょっとケアレスミスの多い看板です。
パソコンの誤変換と、漢字を出す時の読みがそのまま振り仮名になってるのに、気付かなかったのでしょう。
看板の後ろにいくつかの石造物が建っていますが、その内の一つが「血書理趣分塔」です。
調べてみると「理趣経」というのは3000字以上あります。
「血書」とは言うものの、その全文を血で書いたら、行人塚に入る前に失血死しちゃいそうです。
墨に血を混ぜて書いたものも「血書」と言うらしいですから、きっとそれなんでしょう。
看板の文面からすると、その「血書」は残ってないようで、きっと、僧が入定する時、携えていったのでしょう。
そして、その代わりに建てたのが「血書理趣分塔」なのかも知れません。
看板に載っているこの写真、何の説明もないんですが。
薬師堂のご本尊である「薬師像」らしいです。
高崎市教育委員会発行の「豊岡・八幡の民俗」に、こんな記載があります。
きっと薬師様は「めっ!」と叱ったのでしょうが、盗人猛々しいとはよく言ったものです。
それを見たせいか、踏切を渡った左角の建物が何となくお堂っぽく見えてしまいます。
しかしその感覚は間違いではなかったようで。
建物には「下台公民館」という看板が掛かっていますが、そこにある石碑には「薬師堂」云々と刻まれています。
もとは「薬師堂」だったのでしょう。
よく見ると、前庭に香炉と花立てが備わっていました。
公民館の裏と左側は墓地になっていて、道路に面して史跡看板が建っています。
ちょっとケアレスミスの多い看板です。
パソコンの誤変換と、漢字を出す時の読みがそのまま振り仮名になってるのに、気付かなかったのでしょう。
看板の後ろにいくつかの石造物が建っていますが、その内の一つが「血書理趣分塔」です。
調べてみると「理趣経」というのは3000字以上あります。
「血書」とは言うものの、その全文を血で書いたら、行人塚に入る前に失血死しちゃいそうです。
墨に血を混ぜて書いたものも「血書」と言うらしいですから、きっとそれなんでしょう。
看板の文面からすると、その「血書」は残ってないようで、きっと、僧が入定する時、携えていったのでしょう。
そして、その代わりに建てたのが「血書理趣分塔」なのかも知れません。
看板に載っているこの写真、何の説明もないんですが。
薬師堂のご本尊である「薬師像」らしいです。
高崎市教育委員会発行の「豊岡・八幡の民俗」に、こんな記載があります。
「 | 下台の薬師 |
目の神様である。 十月十三日が縁日で、「おさご」「おさいせん」を進ぜる。 |
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お堂の扉に「め、め」と半紙に書いて貼る。 | |
以前は木彫りの薬師像があったが盗まれてしまった。 現在は石仏である。」 |
きっと薬師様は「めっ!」と叱ったのでしょうが、盗人猛々しいとはよく言ったものです。
【血書理趣分塔】