生原(おいばら)の信号から、県道123号線(柏木沢・大八木線)を北へ900mほど行くと、左手に「今宮八幡宮」があります。
あるはずなんですが・・・、史跡看板が見当たりません。
社殿の前にもありません。
境内の裏へ回ってみたら、ありました。
「柏木沢」という地名について、「箕輪町誌」にはこう書いてあります。
京都の「石清水八幡宮」から勧請したという1264年は鎌倉時代中期、文永元年です。
社殿の扁額を見ると平成二十九年に七百五十年祭をやってるようですが、1264年から750年目は平成二十六年のはずなんですが・・・。
ま、細かいことはいいでしょう。
「群馬縣群馬郡誌」によると、話しはさらに遡ります。
社殿の左に祀られているのは、「阿弥陀如来」となっていますが、「病気平癒の神」ということなので、もしかすると「薬師如来」かも知れません。
先の「群馬縣群馬郡誌」には、こんな記述があります。
社殿の後ろに、看板に書かれている石造物がずらっと並んでいます。
一番道路側に、「二十二夜様」がゆったり座っておられます。
えらいなぁと思うのは、どの石造物も刻まれている文字がみな赤く塗られていて、明瞭に読み取れることです。
そして、主だった石仏や石祠には、その名前とご利益が表示されていること。
いままで、いろいろな所を見てきましたが、ここまできちんとしているところはありませんでした。
この神社が、地域に根差していることがよく分かります。
神社の近くに道しるべがあり、ご先祖様の盆送りをした茄子の馬が置いてありました。
道しるべには、「向 右上郊・高崎 左榛名・伊香保」、側面には「右本村道」と刻んであります。
歴史が、生きてますね。
あるはずなんですが・・・、史跡看板が見当たりません。
社殿の前にもありません。
境内の裏へ回ってみたら、ありました。
「柏木沢」という地名について、「箕輪町誌」にはこう書いてあります。
「 | 本村ハ長野郷ニテ青木庄ナリ。 |
永正ノ比(頃?)本国白井城ヨリ松井田城ヘノ通路ナリシガ、柏木(檞ノ俗字)多ク生ゼシ地ナルヲ以テ村名起レリト称ス。」 |
京都の「石清水八幡宮」から勧請したという1264年は鎌倉時代中期、文永元年です。
社殿の扁額を見ると平成二十九年に七百五十年祭をやってるようですが、1264年から750年目は平成二十六年のはずなんですが・・・。
ま、細かいことはいいでしょう。
「群馬縣群馬郡誌」によると、話しはさらに遡ります。
「 | 今宮の古蹟(相馬村) |
日本武尊東征のとき、常陸國新治郡筑波を經て甲斐國山梨郡酒折宮に來り玉ひ、更に北に向ひ上野國群馬郡今宮の里に休所を定めらると、この際尊が 天皇より給はれる大國主命が國土經營のとき持ち廻りたる柊の予(矛?)を、この地に奉祭あらせられたりといふ傳説あり。 | |
又白鳳元年(紀元=皇紀千三百三十二年=西暦661年)天武天皇の時、山城國船岡山の北紫野より奉遷すと、これ卽ち今宮と稱する始めなりとも云ふ。(略) | |
今の大字柏木澤八幡宮境内は日本武尊の遺跡なることは上野風土記に見ゆ。」 |
社殿の左に祀られているのは、「阿弥陀如来」となっていますが、「病気平癒の神」ということなので、もしかすると「薬師如来」かも知れません。
先の「群馬縣群馬郡誌」には、こんな記述があります。
「 | 現今俗に藥師如來と稱する石祠あり、これ白鳳年間奉遷したるを時代の變遷により古名を失ひ、藥師と改稱したるものならんか。」 |
社殿の後ろに、看板に書かれている石造物がずらっと並んでいます。
一番道路側に、「二十二夜様」がゆったり座っておられます。
えらいなぁと思うのは、どの石造物も刻まれている文字がみな赤く塗られていて、明瞭に読み取れることです。
そして、主だった石仏や石祠には、その名前とご利益が表示されていること。
いままで、いろいろな所を見てきましたが、ここまできちんとしているところはありませんでした。
この神社が、地域に根差していることがよく分かります。
神社の近くに道しるべがあり、ご先祖様の盆送りをした茄子の馬が置いてありました。
道しるべには、「向 右上郊・高崎 左榛名・伊香保」、側面には「右本村道」と刻んであります。
歴史が、生きてますね。
【今宮八幡宮】
【道しるべ】