吉井町の小棚公民館から40mほど東へ行くと、吉井大橋から来る道に出ます。
そこから60mほど南へ行くと、右前方にお堂らしき屋根が見えてきます。
民家の塀に沿って小道を入ると、「小棚薬師堂」の前に出ます。
堂の中に祀られている薬師像の数の多さが、地域の人々の信仰の深さを物語っているように思います。
この辺りは、中世の時代「小棚城」というのがあったようで、現在もその輪郭を残しています。
鏑川に架かる「吉井大橋」から来る道を跨ぐ、「城裏橋」という名前の橋があります。
「吉井大橋」は昭和十四年(1939)の架橋で、その時に崖地を切り通して道ができたのでしょう。
「吉井大橋」ができるまでは、「城坂」(図の「城板」は誤り)を通って河原へ降り、「穴岡の渡し」を舟で渡ったということです。
図の一番下に「西城橋」というのがありますが、これは「二丈橋」でしょう。
「にじょう」を「にしじょう」と見立てたのでしょうが、位置的にも城の西ではありません。
橋の高さが二丈=約6mということで「二丈橋」なのだと思います。
北西の一番奥まったところが「郭八幡」となっていますが、行ってみると石祠などが建っています。
石垣の一段高い所に、「八幡社」でも祀ってあったのでしょうか。
その東に、城主であったという布瀬川家の大きな建物が残っています。
その東は広い農地になっていて、「物見塚」と思しきちょっと高くなっているところが見えます。
この高さでは物見にはならないでしょうから、きっと昔はもっと高くて大きい古墳か何かだったのでしょう。
それにしても、吉井という所は古墳や城跡のなんと多い所でしょう。
古代からの重要な土地柄だったということが、よく分かります。
そこから60mほど南へ行くと、右前方にお堂らしき屋根が見えてきます。
民家の塀に沿って小道を入ると、「小棚薬師堂」の前に出ます。
堂の中に祀られている薬師像の数の多さが、地域の人々の信仰の深さを物語っているように思います。
この辺りは、中世の時代「小棚城」というのがあったようで、現在もその輪郭を残しています。
鏑川に架かる「吉井大橋」から来る道を跨ぐ、「城裏橋」という名前の橋があります。
「吉井大橋」は昭和十四年(1939)の架橋で、その時に崖地を切り通して道ができたのでしょう。
「吉井大橋」ができるまでは、「城坂」(図の「城板」は誤り)を通って河原へ降り、「穴岡の渡し」を舟で渡ったということです。
図の一番下に「西城橋」というのがありますが、これは「二丈橋」でしょう。
「にじょう」を「にしじょう」と見立てたのでしょうが、位置的にも城の西ではありません。
橋の高さが二丈=約6mということで「二丈橋」なのだと思います。
北西の一番奥まったところが「郭八幡」となっていますが、行ってみると石祠などが建っています。
石垣の一段高い所に、「八幡社」でも祀ってあったのでしょうか。
その東に、城主であったという布瀬川家の大きな建物が残っています。
その東は広い農地になっていて、「物見塚」と思しきちょっと高くなっているところが見えます。
この高さでは物見にはならないでしょうから、きっと昔はもっと高くて大きい古墳か何かだったのでしょう。
それにしても、吉井という所は古墳や城跡のなんと多い所でしょう。
古代からの重要な土地柄だったということが、よく分かります。
【小棚薬師堂】