「太鼓橋」跡の東端に、下へ降りる小径があります。
今は暗渠になっていますが、かつて「太鼓橋」の下を流れていた「五貫堀」の、その対岸に石段があります。
その石段を上った所が「冠稲荷神社」です。
看板にあるように、この「冠稲荷神社」、昔は「三光寺稲荷神社」と呼ばれていました。
もともとここには、「養報寺」の末寺で「宝珠山三光寺」という72坪ほどの小さなお寺があって、その境内に祀られていたお稲荷さんでした。
「新編高崎市史 資料編14」によると、「三光寺」は貞享三年(1686)の開基だそうです。
看板では「三光寺稲荷神社」は延宝二年(1674)の勧請とありますので、お稲荷さんの方が先にあったことになります。
そうなんでしょうか?
「三光寺稲荷」についてはこんな伝説があります。
今でこそ、ひっそりした小さな稲荷神社ですが、往時はとにかくたくさんの人の信仰を集めていたらしいです。
前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」の記述で見てみましょう。
ここで思い出して頂きたいのが、前回の記事で「太鼓橋」と「宝蔵橋」は別物らしい、というあの話です。
迷道院のいつもの当てずっぽうですが、「宝蔵橋」はこの石段下の「五貫堀」に架かっていた橋なんじゃないかと。
街道から引っ込んだ「三光寺稲荷神社」なら、飯盛女の名を玉垣に刻んだって、お上のお目こぼしも得られたでしょう。
「三光寺」は明治十年(1877)に廃寺となり、堂宇のあった所は現在「横町公民館」になっています。
「三光寺稲荷」も、看板にあるように明治四十二年(1909)に倉賀野神社に合祀され、社殿は前橋市川曲町の「諏訪神社」に売却・移築されて、いまも現存しています。
川曲の「諏訪神社」に行ってみると、最近改修されたようではありますが実に立派な社殿で、往時の「三光寺稲荷」の繫盛ぶりを想像できます。
今日は見られませんでしたが、立派な格天井絵もあるようです。
ちゃんと、倉賀野から移築したと刻まれているのが嬉しいですね。
昭和十一年(1936)に建てた「神社合祀記念碑」と、碑背の「由緒記」をもとにした、詳しい説明看板が建っています。
一方、倉賀野神社に合祀されたはずの「三光寺稲荷」は、元の場所に帰りたくて仕方がなかったようで。
お稲荷様は元の場所に戻りましたが、倉賀野神社には今も「冠稲荷」が祀られています。
お祭りも両方の神社で行っており、横町では四月八日、倉賀野神社では二月初午だそうです。
これもまた、いいじゃないですか。
今は暗渠になっていますが、かつて「太鼓橋」の下を流れていた「五貫堀」の、その対岸に石段があります。
その石段を上った所が「冠稲荷神社」です。
看板にあるように、この「冠稲荷神社」、昔は「三光寺稲荷神社」と呼ばれていました。
もともとここには、「養報寺」の末寺で「宝珠山三光寺」という72坪ほどの小さなお寺があって、その境内に祀られていたお稲荷さんでした。
「新編高崎市史 資料編14」によると、「三光寺」は貞享三年(1686)の開基だそうです。
看板では「三光寺稲荷神社」は延宝二年(1674)の勧請とありますので、お稲荷さんの方が先にあったことになります。
そうなんでしょうか?
「三光寺稲荷」についてはこんな伝説があります。
「 | 其の昔、三光寺様は養報寺の隱居寺でありました。 |
其の頃は、今のお宮より、もっともっと大きな立派なお寺であったさうです。 | |
所が、夜になると白い狐が、お寺の廊下にゐたり、又は人を化かしたりするので、大邊困りました。 | |
其處で、町の人達はどうしたらよからうかと毎日の様に考へてゐました。 | |
所があるお百姓さんの考へで其の狐をお祀りする事になりました。 | |
其の頃の江戸、今の東京へ行って正一位冠稲荷と言ふ立派な位を戴いて來て、お宮を建てゝお祀りすると、不思議にそれから白狐が出なくなったと言ふ事です。」 |
(伝説之倉賀野)
今でこそ、ひっそりした小さな稲荷神社ですが、往時はとにかくたくさんの人の信仰を集めていたらしいです。
前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」の記述で見てみましょう。
「 | 倉賀野宿遊女の稲荷様に対する信仰は大変なもので、当時三光寺稲荷といえば近郷に響き、今でも遠隔の地からはるばる参詣する人々も時たまあるが、その大繫盛ぶりは相当なものであった。 |
それを裏付ける如く社内境内の奉納品に高崎、玉村を始め遠方より沢山の寄進のあったことが玉垣、御神燈、社殿に明確に残されている。 | |
特に玉垣には各女郎屋と遊女名が刻まれている。 現在の倉賀野神社の玉垣がそれで、一部は養報寺弁財天池の端の玉垣となっている。」 |
ここで思い出して頂きたいのが、前回の記事で「太鼓橋」と「宝蔵橋」は別物らしい、というあの話です。
迷道院のいつもの当てずっぽうですが、「宝蔵橋」はこの石段下の「五貫堀」に架かっていた橋なんじゃないかと。
街道から引っ込んだ「三光寺稲荷神社」なら、飯盛女の名を玉垣に刻んだって、お上のお目こぼしも得られたでしょう。
「三光寺」は明治十年(1877)に廃寺となり、堂宇のあった所は現在「横町公民館」になっています。
「三光寺稲荷」も、看板にあるように明治四十二年(1909)に倉賀野神社に合祀され、社殿は前橋市川曲町の「諏訪神社」に売却・移築されて、いまも現存しています。
川曲の「諏訪神社」に行ってみると、最近改修されたようではありますが実に立派な社殿で、往時の「三光寺稲荷」の繫盛ぶりを想像できます。
今日は見られませんでしたが、立派な格天井絵もあるようです。
ちゃんと、倉賀野から移築したと刻まれているのが嬉しいですね。
昭和十一年(1936)に建てた「神社合祀記念碑」と、碑背の「由緒記」をもとにした、詳しい説明看板が建っています。
一方、倉賀野神社に合祀されたはずの「三光寺稲荷」は、元の場所に帰りたくて仕方がなかったようで。
「 | ある老人の夢枕に稲荷様が立ち、『帰りたい、帰りたい』というので、それが噂となり、横町で寄付を募り、社殿の再興にこぎつけたのである。(略) |
ところで、冠稲荷の名は復祀後初めて称するようになったわけではなく、その名はすでに明治十年(1877)の『郡村誌』に『土人之ヲ冠稲荷ト称ス』とみえており、明治初年に遡ることが確実である。」 |
(倉賀野町の民俗)
お稲荷様は元の場所に戻りましたが、倉賀野神社には今も「冠稲荷」が祀られています。
お祭りも両方の神社で行っており、横町では四月八日、倉賀野神社では二月初午だそうです。
これもまた、いいじゃないですか。
【横町の冠稲荷神社】
【倉賀野神社の冠稲荷】
【川曲町の諏訪神社】