2017年08月06日

史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

「太鼓橋」跡の東端に、下へ降りる小径があります。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

今は暗渠になっていますが、かつて「太鼓橋」の下を流れていた「五貫堀」の、その対岸に石段があります。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

その石段を上った所が「冠稲荷神社」です。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

看板にあるように、この「冠稲荷神社」、昔は「三光寺稲荷神社」と呼ばれていました。
もともとここには、「養報寺」の末寺で「宝珠山三光寺」という72坪ほどの小さなお寺があって、その境内に祀られていたお稲荷さんでした。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

「新編高崎市史 資料編14」によると、「三光寺」は貞享三年(1686)の開基だそうです。
看板では「三光寺稲荷神社」は延宝二年(1674)の勧請とありますので、お稲荷さんの方が先にあったことになります。
そうなんでしょうか?

「三光寺稲荷」についてはこんな伝説があります。
其の昔、三光寺様は養報寺の隱居寺でありました。
其の頃は、今のお宮より、もっともっと大きな立派なお寺であったさうです。
所が、夜になると白い狐が、お寺の廊下にゐたり、又は人を化かしたりするので、大邊困りました。
其處で、町の人達はどうしたらよからうかと毎日の様に考へてゐました。
所があるお百姓さんの考へで其の狐をお祀りする事になりました。
其の頃の江戸、今の東京へ行って正一位冠稲荷と言ふ立派な位を戴いて來て、お宮を建てゝお祀りすると、不思議にそれから白狐が出なくなったと言ふ事です。」
(伝説之倉賀野)

今でこそ、ひっそりした小さな稲荷神社ですが、往時はとにかくたくさんの人の信仰を集めていたらしいです。

前澤辰雄氏著「上州倉賀野河岸」の記述で見てみましょう。
倉賀野宿遊女の稲荷様に対する信仰は大変なもので、当時三光寺稲荷といえば近郷に響き、今でも遠隔の地からはるばる参詣する人々も時たまあるが、その大繫盛ぶりは相当なものであった。
それを裏付ける如く社内境内の奉納品に高崎、玉村を始め遠方より沢山の寄進のあったことが玉垣、御神燈、社殿に明確に残されている。
特に玉垣には各女郎屋と遊女名が刻まれている。
現在の倉賀野神社の玉垣がそれで、一部は養報寺弁財天池の端の玉垣となっている。」

ここで思い出して頂きたいのが、前回の記事で「太鼓橋」「宝蔵橋」は別物らしい、というあの話です。

迷道院のいつもの当てずっぽうですが、「宝蔵橋」はこの石段下の「五貫堀」に架かっていた橋なんじゃないかと。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

街道から引っ込んだ「三光寺稲荷神社」なら、飯盛女の名を玉垣に刻んだって、お上のお目こぼしも得られたでしょう。

「三光寺」は明治十年(1877)に廃寺となり、堂宇のあった所は現在「横町公民館」になっています。
「三光寺稲荷」も、看板にあるように明治四十二年(1909)に倉賀野神社に合祀され、社殿は前橋市川曲町の「諏訪神社」に売却・移築されて、いまも現存しています。

川曲の「諏訪神社」に行ってみると、最近改修されたようではありますが実に立派な社殿で、往時の「三光寺稲荷」の繫盛ぶりを想像できます。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

今日は見られませんでしたが、立派な格天井絵もあるようです。
ちゃんと、倉賀野から移築したと刻まれているのが嬉しいですね。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

昭和十一年(1936)に建てた「神社合祀記念碑」と、碑背の「由緒記」をもとにした、詳しい説明看板が建っています。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

一方、倉賀野神社に合祀されたはずの「三光寺稲荷」は、元の場所に帰りたくて仕方がなかったようで。
ある老人の夢枕に稲荷様が立ち、『帰りたい、帰りたい』というので、それが噂となり、横町で寄付を募り、社殿の再興にこぎつけたのである。(略)
ところで、冠稲荷の名は復祀後初めて称するようになったわけではなく、その名はすでに明治十年(1877)の『郡村誌』に『土人之ヲ冠稲荷ト称ス』とみえており、明治初年に遡ることが確実である。」
(倉賀野町の民俗)

お稲荷様は元の場所に戻りましたが、倉賀野神社には今も「冠稲荷」が祀られています。
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

お祭りも両方の神社で行っており、横町では四月八日、倉賀野神社では二月初午だそうです。
これもまた、いいじゃないですか。


【横町の冠稲荷神社】
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

【倉賀野神社の冠稲荷】
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社

【川曲町の諏訪神社】
史跡看板散歩-56 冠稲荷神社





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この記事へのコメント
板鼻宿には山崎稲荷神社がありますが、やはり飯盛女たちの信仰が厚く、当時はずいぶん栄えていたと伝えられています。

獅子や龍の木鼻はよく見ますが、狐を模した木鼻は珍しいのではないでしょうか。お稲荷さんらしくて親しみが持てる感じですね^^。
Posted by 風子  at 2017年08月10日 09:43
>風子さん

板鼻宿と倉賀野宿は、飯盛女を置くことを許さなかった高崎宿を挟んでますからね。
どうせ泊まるなら、板鼻宿か倉賀野宿ということで栄えたようですね。

元三光寺稲荷の社殿、すごいでしょ。
倉賀野に残せなかったのはちょっと残念ですが、大切にしてくれている川曲の皆さんには感謝です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年08月10日 20:21
諏訪神社木彫りが、素晴しいですね。
柱まで精密に彫られています、
有名な彫り師の作品かも知れません
稲荷の狐の彫物が珍しいです。
Posted by wasada49  at 2017年08月11日 07:12
>wasada49さん

珍しいですよね。
施主の注文なのか、宮大工の洒落なのか、いずれにしてもいいものを作って残してくれたもんです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年08月11日 17:16
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