矢島孫三郎(天来)に守られるように、その隣に眠る矢島八郎のお墓です。
思ったよりも小さな墓石で、意外でした。
もっとも、矢島八郎は生前から質素を重んじていたようで、葬儀に於いても生花・造花・放鳥等の寄贈は堅く辞退したそうです。
八郎が質素に徹するきっかけとなった逸話が、「矢島八郎翁銅像建設記念」誌に「継母の教訓に服す」という題で載っています。
墓の右隣に、天来による八郎の人柄を表わす句を刻んだ碑が建っています。
花や眼に
たたで実って
久留美かな
下和田の胡桃塚から移す時にでも損じてしまったのでしょうか、右上が欠けているように見えます。
その裏面です。
「大正辛酉」は大正十年(1921)ですから、矢島八郎が亡くなったその年の冬に建てられたことになります。
天来の眼は既に光を失っていた訳ですから、どのようにこの文字を書いたのか・・・。
ほとばしる魂の、強い力を感じさせます。
だいぶ長い話になりましたが、最後にもう一つだけ。
矢島八郎の菩提寺は元紺屋町の善念寺であるのに、なぜ下和田の地に胡桃塚という墓地を用意したのでしょうか。
矢島八郎の墓地に隣接する「キリスト教墓地」に、その理由を窺わせるものがあります。
かつては、この「キリスト教墓地」も下和田の胡桃塚と隣接した場所にあり、同じころ八幡霊園へ移されたのだと思います。
「キリスト教墓地」の一角に、「高崎教会墓地由来記」という石碑が建っています。
碑文を見ると、この墓地を造った藤巻喜兵衛という人物のことが詳細に記されており、矢島八郎の名前こそ出てきませんが、高崎市会議員として共に事業を推進した関係であることが分かります。
また、「キリスト教墓地」を造った経緯として、「二男・督が天に召された時、信仰の証として下和田町烏川崖上に土地を求め、この地を藤巻家の墓地とし、教会員に広く開放した。」と記されていますが、実は、これにも矢島八郎との秘話があったようです。
喜兵衛が、生後間もない次男・督をジフテリアで失ったのが明治二十三年(1890)。
しかし、藤巻家が代々檀徒総代を務めてきた安国寺に、キリスト教信者であるという理由で埋葬を拒否されてしまいます。
困った喜兵衛の相談に乗ったのが、当時高崎町長であった矢島八郎でした。
その結果、喜兵衛は下和田の烏川崖上に土地を求め、墓地転用の手続きをして、没後三年目にようやく次男・督の埋葬を済ませることができたのです。(新編高崎市史通史編4)
安国寺に限らず、市内の仏教寺院がキリスト教徒の埋葬を拒んだというのは、当時としては一般的なことであったのでしょう。
なにしろ、明治になってからもキリスト教の迫害が続き、政府が公式にキリスト教の活動を認めたのは明治三十二年(1899)だったそうですから。
そんな世相の中、喜兵衛が「キリスト教墓地」として土地を求めても、それを知って売る人はいなかったのだと思われます。
ここからは例によって迷道院の根拠なき推測ですが、見かねた矢島八郎は、まず自分の墓地にするという名目で崖上の土地を購入し、その一部を喜兵衛に売却したのではないでしょうか。
あるいは、矢島八郎自ら土地を購入して墓地転用することによって、喜兵衛の墓地取得への道筋をつけたのかも知れません。
矢島八郎は、そのことを一切口にせず、他の人の口にもさせず、静かに胡桃塚に眠ることにしたのでしょう。
だとすれば、まさに天来の言う「花や眼に ただで実って 久留美かな」、大人物であります。
命日の九月七日を「久留美忌」とでも名付け、高崎市の記念日にしたいところですが、「そんなこたぁ、御免こうむる。」という矢島八郎の声が聞こえてきそうです。
せめて、観音山へ足を運んだら、矢島八郎翁銅像に手を合わせることといたしましょう。
さて、古観音山を後にし、新観音山へ歩を進めましょう。
思ったよりも小さな墓石で、意外でした。
もっとも、矢島八郎は生前から質素を重んじていたようで、葬儀に於いても生花・造花・放鳥等の寄贈は堅く辞退したそうです。
八郎が質素に徹するきっかけとなった逸話が、「矢島八郎翁銅像建設記念」誌に「継母の教訓に服す」という題で載っています。
「 | 翁が未だ三十九歳の血氣盛りて縣會議員であった時、現在の八島町高崎館のある處に中牛馬會社と云ふ運送店を經營して居り、新(あら)町の自宅から毎日其會社へ通勤して居った。 |
會社には繼母の田代子さんが留守をしてゐたが、或る日のこと翁は其頃珍らしい外套を新調し、之を着飾って前橋市の縣廰内で開かるゝ縣會へ臨席すべく家を出て、汽車の發車までに少し時間があるので會社の方へ立ち寄った。 | |
すると繼母は、翁が無斷で外套を新調したのが癪に障ったかして、折から店先に配達された牛乳を取るより早く翁の頭から外套へ打ち掛け、物をも言はずにサッサと奥へ姿を消してしまった。 | |
普通の人なら如何に繼母とは云へ、かゝる非道の行爲に逢ふては默しては居られず、親子間の大活劇が演じらるゝのであるが、翁はヂッと之を耐えて少しも忿怒の色を見せず、又何にも言はずに辛抱したので、之を見聞した人々は翁の偉かったことを賞賛しないものは無かった。 | |
爾來翁は懐中時計・蝙蝠傘を持たず、指輪をはめず、ござ付の下駄をはかずして生涯を通した。唯だ扇子は春夏秋冬、手から離したことが無かった。」 |
墓の右隣に、天来による八郎の人柄を表わす句を刻んだ碑が建っています。
花や眼に
たたで実って
久留美かな
下和田の胡桃塚から移す時にでも損じてしまったのでしょうか、右上が欠けているように見えます。
その裏面です。
「 | 久留美は花をもてど、桃桜の如に春を粧はず、秋実りてはじめて胡桃なりしかを。 |
宗敏翁は常に身を纏ふにも錦を飾らず、問はざれば寒暑をこたへず、只一面の白扇、秋の稔りに嵐を気づかひ、冬の夕野に馬ひく男の子にも思ひを馳するなど、いと切なりし。 | |
今そが俤を石に刻して、此塚にたつ年月の古し行く後の世に、おもひ草にしやとて、かくはしるして残すに南無。 | |
大正辛酉之年冬乃日」 |
「大正辛酉」は大正十年(1921)ですから、矢島八郎が亡くなったその年の冬に建てられたことになります。
天来の眼は既に光を失っていた訳ですから、どのようにこの文字を書いたのか・・・。
ほとばしる魂の、強い力を感じさせます。
だいぶ長い話になりましたが、最後にもう一つだけ。
矢島八郎の菩提寺は元紺屋町の善念寺であるのに、なぜ下和田の地に胡桃塚という墓地を用意したのでしょうか。
矢島八郎の墓地に隣接する「キリスト教墓地」に、その理由を窺わせるものがあります。
かつては、この「キリスト教墓地」も下和田の胡桃塚と隣接した場所にあり、同じころ八幡霊園へ移されたのだと思います。
「キリスト教墓地」の一角に、「高崎教会墓地由来記」という石碑が建っています。
碑文を見ると、この墓地を造った藤巻喜兵衛という人物のことが詳細に記されており、矢島八郎の名前こそ出てきませんが、高崎市会議員として共に事業を推進した関係であることが分かります。
また、「キリスト教墓地」を造った経緯として、「二男・督が天に召された時、信仰の証として下和田町烏川崖上に土地を求め、この地を藤巻家の墓地とし、教会員に広く開放した。」と記されていますが、実は、これにも矢島八郎との秘話があったようです。
喜兵衛が、生後間もない次男・督をジフテリアで失ったのが明治二十三年(1890)。
しかし、藤巻家が代々檀徒総代を務めてきた安国寺に、キリスト教信者であるという理由で埋葬を拒否されてしまいます。
困った喜兵衛の相談に乗ったのが、当時高崎町長であった矢島八郎でした。
その結果、喜兵衛は下和田の烏川崖上に土地を求め、墓地転用の手続きをして、没後三年目にようやく次男・督の埋葬を済ませることができたのです。(新編高崎市史通史編4)
安国寺に限らず、市内の仏教寺院がキリスト教徒の埋葬を拒んだというのは、当時としては一般的なことであったのでしょう。
なにしろ、明治になってからもキリスト教の迫害が続き、政府が公式にキリスト教の活動を認めたのは明治三十二年(1899)だったそうですから。
そんな世相の中、喜兵衛が「キリスト教墓地」として土地を求めても、それを知って売る人はいなかったのだと思われます。
ここからは例によって迷道院の根拠なき推測ですが、見かねた矢島八郎は、まず自分の墓地にするという名目で崖上の土地を購入し、その一部を喜兵衛に売却したのではないでしょうか。
あるいは、矢島八郎自ら土地を購入して墓地転用することによって、喜兵衛の墓地取得への道筋をつけたのかも知れません。
矢島八郎は、そのことを一切口にせず、他の人の口にもさせず、静かに胡桃塚に眠ることにしたのでしょう。
だとすれば、まさに天来の言う「花や眼に ただで実って 久留美かな」、大人物であります。
命日の九月七日を「久留美忌」とでも名付け、高崎市の記念日にしたいところですが、「そんなこたぁ、御免こうむる。」という矢島八郎の声が聞こえてきそうです。
せめて、観音山へ足を運んだら、矢島八郎翁銅像に手を合わせることといたしましょう。
さて、古観音山を後にし、新観音山へ歩を進めましょう。