田村仙岳の活躍が記録されている事件の一つに、水戸天狗党の一件があります。
元治元年(1864)三月二十七日、水戸藩士・藤田小四郎は水戸町奉行・田丸稲之衛門を総帥に担ぎ、横浜鎖港を訴えて同志60人余りを率い筑波山に挙兵します。
当初、水戸藩にその対処を任せていた幕府ですが、その六月になって弱冠16歳の高崎藩主・松平右京亮輝聲(うきょうのすけ・てるな)を江戸城に呼び出し、浮浪の徒を追討する総督の任を指示します。
驚いたのは藩の重役たちです。
追討軍総督の立場となって、万が一不首尾となったらえらいことです。
考えた末に、「本来、水戸藩が鎮圧すべき筋であるので、水戸藩が出兵するなら高崎藩もそれに従う。」と要望を述べ、総督という立場だけは免れようとします。
その要望通り水戸藩が出兵することとなったので、高崎藩も出ていかざるを得ません。
1080人の藩士を二隊に分け、6門の大砲を用意して出陣することとなります。
前回の記事で、田村仙岳が武運長久と勝利を祈願した守護札を与えたというのは、この時のことです。
七月七日、高道祖(たかさい)村(茨城県下妻市)で始まった戦闘は、圧倒的多数の追討軍が大勝利をおさめ、天狗党は筑波山に敗走します。
意気揚々と引き揚げてきた追討軍は本陣の多宝院に入ります。
高崎藩は先遣隊200余人を多宝院から直線距離で1kmほど離れた雲充寺に、主力部隊800人はそこから10kmほど離れた関本村(関城町)に宿陣させました。
ところがその夜も明けぬ午前四時、敗走したはずの天狗党が、突如多宝院に夜襲をかけて火を放ったのです。
勝利の酒に酔いしれて熟睡していた不意を突かれ、追討軍本営は総崩れ、着の身着のまま逃げ出したといいます。
その火の手を見た雲充寺の高崎藩兵もびっくり仰天、慌てふためいて戦わずして逃げ出すという騒ぎになりました。
その慌てふためきぶりを、「新編 高崎市史」はこのように記述しています。
この取り乱しようを嘲笑する、落首まで出たそうです。
「右京亮(うきょうのすけ)
卑怯の亮(ひきょうのすけ)と改めむ
匍匐(ほふく)逃げし 恥の高崎」
いやはや、えらいことになってしまいましたが、問題は逃げる時に雲充寺に置きっぱなしにしてきた武器・弾薬です。
それについて「新編高崎市史」は何も書いてませんが、高橋敏氏著「国定忠治を男にした女侠」には、こう書かれています。
どうです、さすが女侠・菊池徳の弟、度胸ある行動じゃありませんか。
ところで、名乗りを上げたもう一人、書肆店の沢本某という人物ですが、実は「国定忠治を・・・」を読む以前に、偶然この名前に接しておりまして。
それは、高崎昭和町で染物をしている丑丸さんから頂いたこんなメールでした。
後日、撮らせて頂いた写真がこれです。↓
まったく知らなかったので、いつもいろいろ教えて頂いてるN先生に問い合わせたところ、すぐご返事を頂きました。
この澤本屋要蔵が、仙岳と一緒に下妻へ行った沢本某に相違ないと思いますが、それにしても妙な組み合わせですね。
ま、お坊さんともなると、いろいろな書物を読んで勉強してたでしょうから、澤本屋へも足しげく出入りし、昵懇の間柄だったのでしょう。
要蔵さんが、仙岳同様任侠心に富んだ人物だったのか、得意客の仙岳に言われて仕方なく付いて行ったのか、それは定かでありません。
タイムマシンでもあったら、この目で二人を見てみたいものです。
さて、高崎藩はこの後、いわゆる「下仁田戦争」で再び水戸天狗党と対峙することとなります。
そして田村仙岳もまた、そこに登場することとなるのです。
では、また次回。


驚いたのは藩の重役たちです。
追討軍総督の立場となって、万が一不首尾となったらえらいことです。
考えた末に、「本来、水戸藩が鎮圧すべき筋であるので、水戸藩が出兵するなら高崎藩もそれに従う。」と要望を述べ、総督という立場だけは免れようとします。
その要望通り水戸藩が出兵することとなったので、高崎藩も出ていかざるを得ません。
1080人の藩士を二隊に分け、6門の大砲を用意して出陣することとなります。
前回の記事で、田村仙岳が武運長久と勝利を祈願した守護札を与えたというのは、この時のことです。
七月七日、高道祖(たかさい)村(茨城県下妻市)で始まった戦闘は、圧倒的多数の追討軍が大勝利をおさめ、天狗党は筑波山に敗走します。
意気揚々と引き揚げてきた追討軍は本陣の多宝院に入ります。
高崎藩は先遣隊200余人を多宝院から直線距離で1kmほど離れた雲充寺に、主力部隊800人はそこから10kmほど離れた関本村(関城町)に宿陣させました。
ところがその夜も明けぬ午前四時、敗走したはずの天狗党が、突如多宝院に夜襲をかけて火を放ったのです。
勝利の酒に酔いしれて熟睡していた不意を突かれ、追討軍本営は総崩れ、着の身着のまま逃げ出したといいます。
その火の手を見た雲充寺の高崎藩兵もびっくり仰天、慌てふためいて戦わずして逃げ出すという騒ぎになりました。
その慌てふためきぶりを、「新編 高崎市史」はこのように記述しています。
「 | 地理不案内の彼らは、藩主の銘が入った大砲や武器を投げ捨て、往還をひたすら南に走った。そして鬼怒川の宗道(そうどう)河岸(茨城県千代川村)に出てようやく一息をつき、地元の人に炊き出しを命じた。 だが恐怖に陥っていた高崎藩は、朝飯が出されたにもかかわらず食べずに飛び出し、鎌庭(かまにわ)の渡し(千代川村)をこえた所で土地の人に高崎の方角を聞いた。すると人々が、川にそってどこまでも上に行けと答えたので、ふたたび走り出した。 |
ところが川尻村(茨城県八千代町)まで来ると、下妻の火が近くに見えてきたのに驚き、桐ケ瀬村(茨城県下妻市)の渡しを東にこえ、ようやく関本村に入ることができた。」 |
この取り乱しようを嘲笑する、落首まで出たそうです。
「右京亮(うきょうのすけ)
卑怯の亮(ひきょうのすけ)と改めむ
匍匐(ほふく)逃げし 恥の高崎」
いやはや、えらいことになってしまいましたが、問題は逃げる時に雲充寺に置きっぱなしにしてきた武器・弾薬です。
それについて「新編高崎市史」は何も書いてませんが、高橋敏氏著「国定忠治を男にした女侠」には、こう書かれています。
「 | 下妻雲充寺に残して来た武器・弾薬は高崎藩にとって敵の手にでも渡ったら恥の上塗りである。 これを何とか取り返し、高崎まで持ち帰りたいと考えた。 |
武装した藩士では水戸浪士に見破られるということで、名乗りを上げたのが清水寺住職田村仙岳と城下書肆(しょし)店沢本某である。 | |
人足を引き連れ、非戦闘員を称して野州下妻まで出かけ、武器・弾薬その他を収容し、高崎まで運搬したという。 | |
高崎藩内における仙岳の覚えはますます高くなり、藩主輝聲の厚い信任を得ることになった。」 |
どうです、さすが女侠・菊池徳の弟、度胸ある行動じゃありませんか。
ところで、名乗りを上げたもう一人、書肆店の沢本某という人物ですが、実は「国定忠治を・・・」を読む以前に、偶然この名前に接しておりまして。
それは、高崎昭和町で染物をしている丑丸さんから頂いたこんなメールでした。
「 | 当店所蔵の本で嘉永五年新刻の庭訓往来諺解と言う本が有りますが、巻末に「諸国書林 上州高崎 澤本屋要蔵」とゆう記載が有りますが、ご存知でしょうか。」 |
後日、撮らせて頂いた写真がこれです。↓
まったく知らなかったので、いつもいろいろ教えて頂いてるN先生に問い合わせたところ、すぐご返事を頂きました。
「 | 澤本屋要蔵はあら町の本屋と判明。 天保15年の資料に「上州高崎新町書物地本澤本屋要蔵」とあります。 学問用のお硬い本を「書物」といい、大衆娯楽用の柔らかい本を「地本」といいます。つまり各種取り揃えているというか、要望に応ずるということですね。」 |
この澤本屋要蔵が、仙岳と一緒に下妻へ行った沢本某に相違ないと思いますが、それにしても妙な組み合わせですね。
ま、お坊さんともなると、いろいろな書物を読んで勉強してたでしょうから、澤本屋へも足しげく出入りし、昵懇の間柄だったのでしょう。
要蔵さんが、仙岳同様任侠心に富んだ人物だったのか、得意客の仙岳に言われて仕方なく付いて行ったのか、それは定かでありません。
タイムマシンでもあったら、この目で二人を見てみたいものです。
さて、高崎藩はこの後、いわゆる「下仁田戦争」で再び水戸天狗党と対峙することとなります。
そして田村仙岳もまた、そこに登場することとなるのです。
では、また次回。
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