清水寺参道に入ってすぐ右、「觀音道路開鑿碑」という大きな碑が建っています。
当初、「羽衣線」に曲がる道路の角地にあって、一緒に開鑿の謂れを刻んだ碑もあったそうですが、道路を拡張するので現在地に移した時、謂れの碑はどこかに紛失してしまったということで、実に残念なことです。
裏面には、
「共通善道共益平和
正心観音正道極楽
徳明」
と刻まれています。
「徳明」とは、洞窟観音と徳明園の創建者、山田徳蔵翁です。
その下には、世話人として片岡村最後の村長で小祝神社宮司の松本喜太郎、地元の市議・片山藤次郎、そして山田徳蔵をはじめ市内の呉服商人の名がずらっと刻まれています。
市内の呉服商たちが、なぜ「観音道路」開鑿の世話人になったのでしょう。
きっと、紛失したという謂れの碑にはその理由が刻まれていたのでしょうが、今となっては推測するより仕方ありません。
ひとつには、前回ご紹介した「清水観音十日夜」との関係が考えられそうです。
「十日夜」は五穀豊穣・養蚕倍盛を祈る行事ですから、養蚕あっての呉服商人たちが資金面で協力したのでしょう。
もうひとつは、明治以来、石原村には多数の糸繭商が存在したということです。
明治二十年(1887)には14人が糸繭商を営み、その内7人は製糸業も兼務しています。
中でも、山口亀太郎氏は質屋業、茂木覚太郎氏は酒穀類商も営むという豪商でしたから、昭和期に入っても村と市内の呉服商との関係は強かったのではないでしょうか。
さて、この先に「井桁の井戸」というのがあるんですが、長くなりそうなので次回に回すことにしましょう。
当初、「羽衣線」に曲がる道路の角地にあって、一緒に開鑿の謂れを刻んだ碑もあったそうですが、道路を拡張するので現在地に移した時、謂れの碑はどこかに紛失してしまったということで、実に残念なことです。
裏面には、
「共通善道共益平和
正心観音正道極楽
徳明」
と刻まれています。
「徳明」とは、洞窟観音と徳明園の創建者、山田徳蔵翁です。
その下には、世話人として片岡村最後の村長で小祝神社宮司の松本喜太郎、地元の市議・片山藤次郎、そして山田徳蔵をはじめ市内の呉服商人の名がずらっと刻まれています。
市内の呉服商たちが、なぜ「観音道路」開鑿の世話人になったのでしょう。
きっと、紛失したという謂れの碑にはその理由が刻まれていたのでしょうが、今となっては推測するより仕方ありません。
ひとつには、前回ご紹介した「清水観音十日夜」との関係が考えられそうです。
「十日夜」は五穀豊穣・養蚕倍盛を祈る行事ですから、養蚕あっての呉服商人たちが資金面で協力したのでしょう。
もうひとつは、明治以来、石原村には多数の糸繭商が存在したということです。
明治二十年(1887)には14人が糸繭商を営み、その内7人は製糸業も兼務しています。
中でも、山口亀太郎氏は質屋業、茂木覚太郎氏は酒穀類商も営むという豪商でしたから、昭和期に入っても村と市内の呉服商との関係は強かったのではないでしょうか。
さて、この先に「井桁の井戸」というのがあるんですが、長くなりそうなので次回に回すことにしましょう。
(参考図書:「清水の歴史散歩」「高崎の産業と経済の歴史」)