昭和六年(1931)金古の絹市場でどのような惨事があったのか、
「群馬の紀ちゃん」さんから頂いた、絹市場殉難者五十回忌追悼「地蔵のねがい」という小冊子の中からお伝えします。
まず、絹市場がどんな建物だったのか、小林好明さんの一文から。
まさか、その一年後に全焼し、一瞬にして13名※もの尊い命を奪ってしまうなどとは、誰ひとり思ってもみなかったでしょう。
上毛新聞の記事です。
実際に惨事に遭った小林好子さんの手記です。
この惨事により亡くなった15名の内、8名が6歳から13歳、15歳から18歳が5名、大人は22歳と59歳のそれぞれ1名と、いかに子供たちの犠牲が多かったかが分かります。
飯島家の墓地に、可愛い少女の石像が一体建っています。
わずか九歳で命を落とした、飯島サダエさんの石像です。
今年も、5月16日に「地蔵まつり」が執り行われます。
常仙寺のお地蔵様に手を合わせる機会がありましたら、少し足を延ばしてこちらにもお参りして頂けたらと思います。
さて次回は、金柳亭幾之助氏がこの惨事を歌にして奉納・出版した、「春の夜嵐」のご紹介です。

「群馬の紀ちゃん」さんから頂いた、絹市場殉難者五十回忌追悼「地蔵のねがい」という小冊子の中からお伝えします。
まず、絹市場がどんな建物だったのか、小林好明さんの一文から。
「 | 東西に長い建物で、東正面は大二階で、階下には映写室がつくられました。西には舞台を設け、舞台裏に二階がありました。 |
南北とも下屋に二階がつけられました。南階下は土間でした。(略) | |
(舞台正面の緞帳を吊る漆喰壁は)向かい合った二頭の龍が、絹市場の文字の入ったくびれた繭を捧げている図柄でした。だれもがほれぼれと見上げるすばらしいものでした。 |
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協議の結果、天井は広告で上げようということになりました。格子状に区切った天井を、上中下の三段階に分けて広告料をいただきました。一桝がトタン板半分の大きさで、広告者の希望の図柄を入れることにしました。組合員総出で各方面を回って募集し、全部をふさぐことができました。 | |
医者の牧震太郎先生は、『広告はいらないが、天井の中央へ日の丸を。』というご要望でした。また、お産婆の松下タケさんのは桃太郎の生まれる絵でした。 |
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落成祝は昭和五年(1930)五月五日に、広告者その他関係者を招待して盛大に行われました。」 |
まさか、その一年後に全焼し、一瞬にして13名※もの尊い命を奪ってしまうなどとは、誰ひとり思ってもみなかったでしょう。
※ | 翌日以降さらに2名が死亡し、15名となる。 |
上毛新聞の記事です。
「 | 十六日午後十時四十分、群馬郡金古町上の絹市場で催された関東日日新聞社前橋支局主催、県下各郡市教育界有志後援の教育映画に於いて、高崎東校の孝女富澤ミエ子を映画化した、「昭和のおふさ」を上映中、突然二階映写室から発火し、火災は忽ち天井に燃え移って、黒煙は渦巻き、感激の涙に咽んでいた観衆は総立ちとなって泣き叫び、俄然会場は阿鼻叫喚の修羅場と化した。 |
この夜の観衆は、階上約百五十人、階下約六百人であったが、逃げ場を失った人々は一時に東方出入口に殺到し、階上にあった観衆は折り重なって階下に飛び降り、東側の雨戸を蹴破って場外に逃れたが、火災は忽ちこの出入口をも封鎖したので、黒煙を潜って西方の非常口に辿り着いた人々は辛うじて障子一枚を蹴破り、濛々たる黒煙と共に吐き出されたが、既に此の頃は、南北両側にある二階は墜落し、場内は全く火の海と化して逃げ遅れた人々は、ここに一団となって焼死した。」 |
実際に惨事に遭った小林好子さんの手記です。
「 | 思いおこせばもう五十年になりましょうか、それは私の小学校二年の春五月十六日の晩の出来事でございました。あまりにも遠い昔の事とは申しながら、私の仲良しだった飯島サダ江さんを失った悲しさは何年たっても忘れる事は出来ないのでございます。(略) |
当時「昭和のお房」とも言われた高崎東小学校の生徒富沢ミエさんの親孝行が映画化され、金常館(絹市場の劇場としての名称)で幾日か上映される事になりました。各町村から順番で先生が生徒を引率しては見に行きました。サダ江さんも私も一度見たのですから行かなければ良かったのに、子供心にまた見たかったのです。(略) |
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事件のおきる直前の場面は、学校の遠足に遅れそうなので駅へ向かって走って居るところでした。突然東中央にある映写機の所から火が出たと思うと天井へ火が走りました。(天井画の)エナメルが火に燃えやすく火を呼んだ状態となったのです。 | |
満員の人達は皆西口へ逃げました。私は二階で見ていた訳ですが、東の階段は火の海で行く事が出来ずに居りますうちに手すりが倒れ、人の頭に下りてそのまま西口へ出る事が出来たのです。 | |
サダ江さんはお兄さんと見て居て西南の隅に逃げたのです。そこは入り口も出口もない角だったのです。其の所へ人々は折り重なって倒れ、そのまま焼け死んでしまったのです。」 |
この惨事により亡くなった15名の内、8名が6歳から13歳、15歳から18歳が5名、大人は22歳と59歳のそれぞれ1名と、いかに子供たちの犠牲が多かったかが分かります。

わずか九歳で命を落とした、飯島サダエさんの石像です。
今年も、5月16日に「地蔵まつり」が執り行われます。
常仙寺のお地蔵様に手を合わせる機会がありましたら、少し足を延ばしてこちらにもお参りして頂けたらと思います。
さて次回は、金柳亭幾之助氏がこの惨事を歌にして奉納・出版した、「春の夜嵐」のご紹介です。
【常仙寺 殉難地蔵】
【飯島サダエ石像】