映画「昭和のおふさ」のモデルとなった富澤ミエさん(大正十三年生れ)が、絹市場殉難者五十回追悼記念誌「地蔵のねがい」に手記を寄せています。
その手記に、ミエさん自身が生い立ちを綴っておられますので、ご紹介いたします。
長い文ですので、2回に分けてお届けします。
その手記に、ミエさん自身が生い立ちを綴っておられますので、ご紹介いたします。
長い文ですので、2回に分けてお届けします。
「思い出の記」 福田(旧姓富澤)ミエ | ||
私は五歳の六月に父を亡くしました。腎臓炎のため、百日余りを病床にあっての後での死、残されたものは幼い三人の子、頼りになる親戚もなく、母は初七日が済むとすぐ、働かなければなりませんでした。 |
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その頃、女のする仕事は殆どなかったのですが、幸いタドン工場で働かせて頂く事になり、一キロほど離れた所でしたが、朝早くから出かけて行きました。その母を見送りながら、一歳の弟は、後姿の見えなくなる迄泣きつづけて居たものでした。時には泣きやまぬ弟にもらい泣きして、三人で声をあげて泣いていると、近所の方が何事かと、のぞいてくれて、慰められた事も二度や三度ではありませんでした。 |
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五歳の私には弟達の昼食の才覚もなく、母の所へ一歳の弟を背負い、三歳の弟の手を引いて行きました。 | ||
そんな毎日が続き、夏が過ぎ、秋が終わり、冬になっての雪の日でした。いつもの通り、弟達をつれて、降る雪に傘をさして、歩き出したのですが・・・。 | ||
その頃の私の履物は、差し歯の下駄でした。少し歩くと下駄に雪が付いてダルマのようになってしまいます。自分の雪を落とすと弟の下駄が雪ダルマ、雪はどんどん降っているのです。この時ほど母の工場が、遠く感じられた事はありませんでした。 |
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背中の弟は泣き出すし、歩いている弟も冷たくて泣き出すし、下駄の雪を電信柱に叩きつけながら落としている私も、たまらなくなって泣き出してしまったのです。ちょうど通りかかった小父さんが、歩いている弟を背負ってくれて、私の手を引いて、母の工場へ連れて行ってくれた思い出は、子供心にも有難く、今でも鮮やかに胸に残って、生涯忘れる事が出来ません。 |
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次の年、私は小学校へ行く年齢でした。学校へやれば子守りができず、母は働かなければならず、で、一年就学を延期して頂くために、学校へお願いに行ったそうですが、弟達を学校へ連れてきても良いと言われ、有難くて、涙して帰って来たそうです。 |
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私は、弟達をつれて、東尋常小学校へ通いました。時間に遅れたことも、おもりで勉強の出来なかった事も度々ありました。 | ||
弟達の夕食も私が作りました。吹きさらしの水道で米をとぎ、冷たさのあまり、口の中で手を温めては水を使いました。バケツに水を汲み、母が帰って来る頃までにはヤカンにお湯を沸かしておくのです。 | ||
火を燃すのも、あの頃はケンタや薪といったもので、家中を煙にして湯を沸かしたものでした。今思えば、弟たちに何を食べさせていたのでしょう。 |
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時には、残業で帰りの遅い母を待ちくたびれて寝てしまった弟達を見ながら、八時九時になっても帰らぬ母に、何事もないようお守り下さいと、長い時間神様に手を合わせて待っていたのです。 「お世話になりました。」と、いつも隣の家に声を掛けてくる母のその声を聞き、ワッと泣き出してしまった事もありました。 |
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一年二年と過ぎ、私が三年生の春、弟が一年生に、五年生の春、下の弟も私が学校へ通いはじめて五年目でやっと、一年生にして頂きました。 | ||
![]() お母さんとミエさん姉弟 |
(つづく)