「昭和のおふさ」と言われた富澤ミエさんの、「思い出の記」つづきです。
ミエさんは、昭和二十七年(1952)に金古町の福田重美さんと結婚、三人のお子さんに恵まれました。
子育てのためにいったんやめた看護婦の仕事も、昭和三十九年(1964)から再開して昭和五十三年(1978)まで続けています。
その後は各種の地域ボランティア活動に熱心に取り組み、厚生大臣表彰を受けるほど尽力されました。
おそらくは、映画のモデルになったという喜ぶべきことが、ミエさんにとってはいつまでも心のトゲとなって残っていたのでありましょうが。
その一生は最後まで、人々の模範となる孝女でありました。
金古絹市場の惨事と昭和のおふさのお話しは、ここまでと致します。
資料をご提供頂いた「群馬の紀ちゃん」さんと金古町の方々に、御礼を申し上げます。
また、お付き合い頂いた読者の皆様に、感謝申し上げます。
ありがとうございました。
文字通り、母は真黒になって働きました。なりふりかまわず、生きることに精一杯だったと思います。 夜、暗くなってから、汽車を見に連れて行ってもらったことが何回かありました。暗い野原で、時々通る汽車を数えたり、大声で走り去る汽車に呼びかけたりしたものです。 母は、私が大きくなってから言いました。「何度汽車みち(母は線路をこう呼んでいました)へ行ったかしれなかったが、喜んで遊んでいるお前達を見ると、死んだ気になれば何でも出来る。」と、思い直しては帰って来たそうです。 その当時の女の賃金はきっと安かったのでしょう、働かなければ食べられないと、休む日とて一日もなく働いてくれたようです。 |
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近所の子供達がお菓子を持っていれば弟達も欲しがります。その時は、すぐおにぎりでした。小さな手で作るおにぎりはまるで野球のボールのようなものだったのです。 そして、私も年一回の遠足も子守りのために行く事が出来ず、学校で友達みんなが出て行くのを見送って居た顔は、泣き出さんばかりの笑い顔だったに違いありません。その後姉弟三人には広過ぎる校庭で、大声あげてかけまわって遊んだ日もありました。 たった一度、母のお弁当を持っていった遠足の覚えがありますが、あれは少林山だったでしょうか・・・。お菓子も果物も何もなくも、その遠足に行けたということで、私は最高に幸せでした。 |
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でも六年生の修学旅行にはやってもらいました。私の好きだった黒いカリントを少し持たせてもらって、大喜びで汽車に乗ったのを覚えてます。 あとでは求める事の出来ない卒業写真も買ってはもらえぬ苦しい生活の中でも、母は、ワラ一本でも人様のものには手をつけるな、人に後ろ指を差されるような事は決してするな、弟達の手本になれ、といつも私に言って居りました。 おかげ様で、何の苦もないような顔をして、伸び伸び育ってきたのも、母や周囲の方々のおかげと感謝して居ります。 |
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幸い、家中が健康に恵まれ、私も小学校を卒業すると、高崎市役所の給仕にして頂きました。 その時の市長さんが、「女の子は手に職をつけておいたほうが良いのでは」と言って下さいまして、東校の校長先生と相談して、看護婦学校へお世話くださいました。 それからは、昼は給仕、夜は看護婦学校へ通い、ようやく資格を得て、十五歳の時から看護婦として働くようになりました。 |
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幼い頃から今迄、無事過ごして来られたのも、その時その時の私の周囲にいて下さった方々の厚いお情けと温かい思いやりの心に恵まれたからと、感謝という言葉では言いつくせぬほど心にとめております。 その当時の私の立場なら誰でもやらなければならなかった当たり前の事をしたのですが、皆々様のあたたかいお心づかいで、映画にして頂きました。 その映画が不慮の事故につながり、多くの方々の生命を・・・と思うと残念でなりません。 |
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或る年でした。金古に住んで居られる方から、お地蔵様の話を聞きました。 早速案内して頂き、お参りしましたが、その折、お寺のうらにあるお墓と、足門のお墓にもお参りさせて頂いた事があります。 その後も、五月十六日になると、じっとしては居られず、勤めに出かける前にと、朝四時起きで一生けんめい自転車をこいで来たのです。 だいじに持ってきたつもりの矢車草も芍薬の花も、風にもまれてしおれかかってはおりましたが、朝早い老夫婦の家でお水を頂き、お参りを済ませ、ホッとした思いで帰った事が何回かあります。 その頃だったでしょうか、お寺の藤の花が見事な花をさかせていた覚えがありますが・・・。 |
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縁あって、金古の地に嫁いで来たのも何かの因縁でしょうか。 今は幸せな日々を過ごさせて頂いております。此の地に来てからは折に触れてはお参りさせて頂いておりましたが、近くにお住いの遺族の方から三十三年忌を聞きまして、当時、金古小学校の校長先生であったお隣の故飯塚半兵衛先生と、お寺に伺い、回向させて頂きました。 |
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その折の御遺族様の胸中、いかばかりだったかとお察し申し上げます。 そして亡くなられた方々のご冥福を、心より深く深くお祈り申し上げます。 |
ミエさんは、昭和二十七年(1952)に金古町の福田重美さんと結婚、三人のお子さんに恵まれました。
子育てのためにいったんやめた看護婦の仕事も、昭和三十九年(1964)から再開して昭和五十三年(1978)まで続けています。
その後は各種の地域ボランティア活動に熱心に取り組み、厚生大臣表彰を受けるほど尽力されました。
おそらくは、映画のモデルになったという喜ぶべきことが、ミエさんにとってはいつまでも心のトゲとなって残っていたのでありましょうが。
その一生は最後まで、人々の模範となる孝女でありました。
金古絹市場の惨事と昭和のおふさのお話しは、ここまでと致します。
資料をご提供頂いた「群馬の紀ちゃん」さんと金古町の方々に、御礼を申し上げます。
また、お付き合い頂いた読者の皆様に、感謝申し上げます。
ありがとうございました。