「おひさま」の陽子が、初恋相手の川原功一に手を引かれて階段を上った松本城です。
こんな立派なお城が残ってるなんて、羨ましいことです。
改めて、「高崎に、もしもお城があったなら」と嘆息するばかりです。
でも、実は松本城も危なかったのです。
明治四年(1871)の廃藩置県で、二の丸御殿に筑摩県庁がおかれると、城内の門や塀の取り壊しが始まりました。
翌年、競売にかけられた松本城は235両で落札され、落札者は天守閣を取り壊すつもりでした。
そこへ、「城がなくなれば松本は骨抜きになる。」と待ったをかけたのが、元信飛新聞社社長・市川 量造氏だそうです。
市川氏は城の買い戻し運動を起こし、城内で開催した博覧会の入場料などを資金に充てて無事買い戻しに成功し、天守閣は残ったのです。
二度目の危機は、明治三十二年(1899)に訪れます。
県は、本丸を松本尋常中学校の運動場にすることを決定します。
町民たちは、「運動場になれば城跡は荒廃する。本丸は公園にして欲しい。」と要望します。
当時、校長であった小林有也(こばやし・うなり)氏は、町民の思いに深く心を動かされ、本丸を運動場にすることは止むなしとしたが、併せて、荒廃して傾いた状態の天守閣を修理・保存するための運動を起こします。
小林校長の行政への働きかけや募金運動により、11年の歳月をかけた大修理工事が竣工しました。
松本城は、昭和二十五年(1950)にも大修理を行っていますが、いずれの場合も、よきリーダーと市民の物心両面にわたる力の結集が、今日の松本市に大きな財産を残しました。
明治九年(1876)には、二の丸御殿に置かれていた筑摩県庁が焼失するという災厄もありました。
素晴らしいと思ったのは、その跡地の残し方です。
「二の丸御殿絵図」をもとに、更地になった跡地にその区割りを再現しています。
もはや、わが高崎城を復元することは困難になった感がありますが、この手法で再現する手は残っているな、と思いました。
二の丸近くに、松本城ボランティアガイドのテントがあり、三人の方が待機していました。
毎日、みなさん手弁当で、9:00~17:00までここに詰めているのだそうです。
これも、松本の市民力ですね。
松本の町なかには、あちこちに水が湧き出ています。
そこには夫々、城下町に由来する事柄が表現されていますが、ここには、江戸時代の旧町名・大名町の由来を書いた石柱が建てられていました。
←このベンチには、歴代の松本藩主一覧が書かれています。
「信濃」の名の由来になったという説もある「シナノキ」の並木道にも、歴代藩主の家紋が描かれた、行燈(あんどん)風の街灯が並んでいます。
行政にここまでやられたら、民間だってその気になります。
← ファミマだって、この通り。
古書店は、お城そのもの。→
← ここは、古さと新しさが見事に調和した、中町通り。
元・造り酒屋の蔵を利用した多目的会館、その名も「蔵シック館」→
いやー、参りましたなー。
魂の入ってる町でした。
活きている町でした。
こんな立派なお城が残ってるなんて、羨ましいことです。
改めて、「高崎に、もしもお城があったなら」と嘆息するばかりです。
でも、実は松本城も危なかったのです。
明治四年(1871)の廃藩置県で、二の丸御殿に筑摩県庁がおかれると、城内の門や塀の取り壊しが始まりました。
翌年、競売にかけられた松本城は235両で落札され、落札者は天守閣を取り壊すつもりでした。
そこへ、「城がなくなれば松本は骨抜きになる。」と待ったをかけたのが、元信飛新聞社社長・市川 量造氏だそうです。
市川氏は城の買い戻し運動を起こし、城内で開催した博覧会の入場料などを資金に充てて無事買い戻しに成功し、天守閣は残ったのです。
二度目の危機は、明治三十二年(1899)に訪れます。
県は、本丸を松本尋常中学校の運動場にすることを決定します。
町民たちは、「運動場になれば城跡は荒廃する。本丸は公園にして欲しい。」と要望します。
当時、校長であった小林有也(こばやし・うなり)氏は、町民の思いに深く心を動かされ、本丸を運動場にすることは止むなしとしたが、併せて、荒廃して傾いた状態の天守閣を修理・保存するための運動を起こします。
小林校長の行政への働きかけや募金運動により、11年の歳月をかけた大修理工事が竣工しました。
松本城は、昭和二十五年(1950)にも大修理を行っていますが、いずれの場合も、よきリーダーと市民の物心両面にわたる力の結集が、今日の松本市に大きな財産を残しました。
明治九年(1876)には、二の丸御殿に置かれていた筑摩県庁が焼失するという災厄もありました。
素晴らしいと思ったのは、その跡地の残し方です。
「二の丸御殿絵図」をもとに、更地になった跡地にその区割りを再現しています。
もはや、わが高崎城を復元することは困難になった感がありますが、この手法で再現する手は残っているな、と思いました。
二の丸近くに、松本城ボランティアガイドのテントがあり、三人の方が待機していました。
毎日、みなさん手弁当で、9:00~17:00までここに詰めているのだそうです。
これも、松本の市民力ですね。
松本の町なかには、あちこちに水が湧き出ています。
そこには夫々、城下町に由来する事柄が表現されていますが、ここには、江戸時代の旧町名・大名町の由来を書いた石柱が建てられていました。
←このベンチには、歴代の松本藩主一覧が書かれています。
「信濃」の名の由来になったという説もある「シナノキ」の並木道にも、歴代藩主の家紋が描かれた、行燈(あんどん)風の街灯が並んでいます。
行政にここまでやられたら、民間だってその気になります。
← ファミマだって、この通り。
古書店は、お城そのもの。→
和楽器の製造販売店もあれば、 | 三味線の生演奏が いつでも聞ける処もあります。 |
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← ここは、古さと新しさが見事に調和した、中町通り。
元・造り酒屋の蔵を利用した多目的会館、その名も「蔵シック館」→
いやー、参りましたなー。
魂の入ってる町でした。
活きている町でした。