棟高の「観音寺」境内にある、「豆腐来由碑」の建立者・飯島靱負氏のことを、もう少し知りたくなりました。
飯島氏の旧姓が岸であったということと、お豆腐屋さんだったということから、金古にある「岸とうふ店」と何らかの繋がりがあるのではないかと思い、訪ねてみました。
小料理屋のような佇まいの「岸とうふ店」です。
外壁にはモダンな壁画が描かれていて、美術館風でもあります。
ご主人にお尋ねしたところ、直接の関係はないとのことでした。
しかし、貴重な情報を教えて頂きました。
飯島靱負氏の弟さんが、棟高町にいらっしゃると言うのです。
早速教えられた家を訪ねたところ、弟さんではなく、靱負氏の三男・飯島国衛(くにえ)さんでした。
国衛さんは快くお話をして下さいました。
今まで読めなかった靱負というお名前は、「ゆきえ」と読むことも分かりましたし、その波乱万丈たる生涯についても知ることができました。
飯島靱負氏の生涯を語るには、そのご両親の話から始めなければなりません。
靱負氏の父は、この界隈の財産家で名主の岸家の末息子・友造氏です。
母・ナベさんもまた、絹織物商の財産家・飯島家の一人娘でした。
友造氏は、なかなかに我儘な人物であったようです。
飯島家としては、一人娘に婿を取って後継者にすることを希望しますが、友造氏はあくまでも岸を名乗ることを条件にしたため、名目は嫁取り、実態は婿入り、という複雑なことになります。
つまり飯島家は、これを以ってお家断絶という形になってしまった訳です。
裕福な家柄に育った友造氏は、仕事よりも道楽に熱心であったといい、さしもの財産もいつか底をついてしまいます。
そのためもあってか、次男として生まれた靱負氏は、婿に出ます。
しかし、身長173cm、体重80kgという巨漢であった靱負氏は、大食漢でもあったようで、それを理由に離縁されてしまうのです。
その後もう一度婿に出ますが、同じ理由で離縁されたのに懲りて、今度は一本立ちして腹いっぱい飯を食べたいと考えます。
金古の野村ヤスさんを娶った靱負氏は、断絶になった母方の飯島姓を継ぎますが、近所の家の物置を借りての世帯は困窮を極めたようです。
いろいろな商売に手を出しましたが、なかなかうまく行かず、最後に、当時は下商売と考えられていた豆腐屋を始めます。
勤勉でアイデアマンの靱負氏と、働き者のヤスさんの努力が実り、店はとんとん拍子に売り上げを伸ばしていきます。
手作業だった大豆のすり潰し作業を動力化したり、つるべ井戸からの水の汲み上げを電動ポンプ化したり、天秤棒を担いでの販売を自転車販売にするなど、すべて靱負氏が業界で初めて取り入れたことだそうです。
最盛期には、2軒分にあたる豆腐製造設備を備え、併せて雑貨販売や精米も行うなど、百貨店並みだったようです。
番頭と3人の小僧を雇っていましたが、それでも人手が足らず、9人いた子どもにも手伝わせるほどの忙しさだったと言います。
この様な人生でしたから、靱負氏が豆腐に対して強く感謝の念を抱いたのは、当然だったかもしれません。
その思いから、忙しい商売の合間を縫って豆腐の由来を調べ、建立したのが「観音寺」境内にある「豆腐来由碑」だったのです。
しかし、靱負氏がそれほど感謝し励んでいた豆腐店を奪ったのは、戦争でした。
モーターを回す電気供給もままならず、鍋・釜の金属類は供出せねばならずということで、ついに廃業せざるを得なくなりました。
靱負氏の無念は、如何ばかりであったかと、心が痛みます。
やっと戦争が終わった昭和二十年(1945)、靱負氏は戦地から復員してくる息子に美味い物を食べさせたいと、高崎目指して自転車を漕いでいました。
当時の三国街道は、チンチン電車が走っており、軌道内は未舗装でえぐれたような状態だったそうです。
靱負氏が家を出て間もなく、相馬ヶ原に駐留していた進駐軍・MPのジープが、後方から煽るように接近して来ました。
靱負氏は危険を感じて軌道内から出ようとしますが、レールに阻まれて出ることができません。
進駐軍のジープは止まることなく靱負氏を跳ね飛ばし、そのまま走り去ってしまったそうです。
進駐軍には何も言えない、そういう時代だったのです。
近所の人が、倒れている靱負氏に駆け寄った時は、既に息を引取っていたと言います。
靱負氏、72歳でした。
ますます「豆腐来由碑」が、貴重な歴史遺産に思えてきました。
さて、話はまだ終わりません。
三男・国衛さんのお話から、「旧三国街道 さ迷い道中記」で知った数々の物や人が、不思議に繋がっていることが分かってきたのです。
しかし、今回も長くなってしまいましたので、また次回ということに。
飯島氏の旧姓が岸であったということと、お豆腐屋さんだったということから、金古にある「岸とうふ店」と何らかの繋がりがあるのではないかと思い、訪ねてみました。
小料理屋のような佇まいの「岸とうふ店」です。
外壁にはモダンな壁画が描かれていて、美術館風でもあります。
ご主人にお尋ねしたところ、直接の関係はないとのことでした。
しかし、貴重な情報を教えて頂きました。
飯島靱負氏の弟さんが、棟高町にいらっしゃると言うのです。
早速教えられた家を訪ねたところ、弟さんではなく、靱負氏の三男・飯島国衛(くにえ)さんでした。
国衛さんは快くお話をして下さいました。
今まで読めなかった靱負というお名前は、「ゆきえ」と読むことも分かりましたし、その波乱万丈たる生涯についても知ることができました。
飯島靱負氏の生涯を語るには、そのご両親の話から始めなければなりません。
靱負氏の父は、この界隈の財産家で名主の岸家の末息子・友造氏です。
母・ナベさんもまた、絹織物商の財産家・飯島家の一人娘でした。
友造氏は、なかなかに我儘な人物であったようです。
飯島家としては、一人娘に婿を取って後継者にすることを希望しますが、友造氏はあくまでも岸を名乗ることを条件にしたため、名目は嫁取り、実態は婿入り、という複雑なことになります。
つまり飯島家は、これを以ってお家断絶という形になってしまった訳です。
裕福な家柄に育った友造氏は、仕事よりも道楽に熱心であったといい、さしもの財産もいつか底をついてしまいます。
そのためもあってか、次男として生まれた靱負氏は、婿に出ます。
しかし、身長173cm、体重80kgという巨漢であった靱負氏は、大食漢でもあったようで、それを理由に離縁されてしまうのです。
その後もう一度婿に出ますが、同じ理由で離縁されたのに懲りて、今度は一本立ちして腹いっぱい飯を食べたいと考えます。
金古の野村ヤスさんを娶った靱負氏は、断絶になった母方の飯島姓を継ぎますが、近所の家の物置を借りての世帯は困窮を極めたようです。
いろいろな商売に手を出しましたが、なかなかうまく行かず、最後に、当時は下商売と考えられていた豆腐屋を始めます。
勤勉でアイデアマンの靱負氏と、働き者のヤスさんの努力が実り、店はとんとん拍子に売り上げを伸ばしていきます。
手作業だった大豆のすり潰し作業を動力化したり、つるべ井戸からの水の汲み上げを電動ポンプ化したり、天秤棒を担いでの販売を自転車販売にするなど、すべて靱負氏が業界で初めて取り入れたことだそうです。
最盛期には、2軒分にあたる豆腐製造設備を備え、併せて雑貨販売や精米も行うなど、百貨店並みだったようです。
番頭と3人の小僧を雇っていましたが、それでも人手が足らず、9人いた子どもにも手伝わせるほどの忙しさだったと言います。
この様な人生でしたから、靱負氏が豆腐に対して強く感謝の念を抱いたのは、当然だったかもしれません。
その思いから、忙しい商売の合間を縫って豆腐の由来を調べ、建立したのが「観音寺」境内にある「豆腐来由碑」だったのです。
しかし、靱負氏がそれほど感謝し励んでいた豆腐店を奪ったのは、戦争でした。
モーターを回す電気供給もままならず、鍋・釜の金属類は供出せねばならずということで、ついに廃業せざるを得なくなりました。
靱負氏の無念は、如何ばかりであったかと、心が痛みます。
やっと戦争が終わった昭和二十年(1945)、靱負氏は戦地から復員してくる息子に美味い物を食べさせたいと、高崎目指して自転車を漕いでいました。
当時の三国街道は、チンチン電車が走っており、軌道内は未舗装でえぐれたような状態だったそうです。
靱負氏が家を出て間もなく、相馬ヶ原に駐留していた進駐軍・MPのジープが、後方から煽るように接近して来ました。
靱負氏は危険を感じて軌道内から出ようとしますが、レールに阻まれて出ることができません。
進駐軍のジープは止まることなく靱負氏を跳ね飛ばし、そのまま走り去ってしまったそうです。
進駐軍には何も言えない、そういう時代だったのです。
近所の人が、倒れている靱負氏に駆け寄った時は、既に息を引取っていたと言います。
靱負氏、72歳でした。
ますます「豆腐来由碑」が、貴重な歴史遺産に思えてきました。
さて、話はまだ終わりません。
三男・国衛さんのお話から、「旧三国街道 さ迷い道中記」で知った数々の物や人が、不思議に繋がっていることが分かってきたのです。
しかし、今回も長くなってしまいましたので、また次回ということに。
(参考図書:飯島富雄氏著「飯島家先祖伝説逸話集」)
【岸とうふ店】