大橋町の藤森稲荷を移したという、上小塙(かみこばな)町の烏子(すないご)稲荷神社へ行ってみました。
稲荷神社なのに、なぜか駐車場には「たぬき」が置いてあります。 →
こちらの宮司さん、なかなかお忙しい方でいつもお留守でしたが、やっとお会いすることができました。
宮司の山田道長さんはとても気さくな方で、いろいろと興味深いお話をして頂いた後、藤森稲荷が納められている場所まで案内して下さいました。
石段を上った本殿の右側に、いくつもの祠が置かれている場所があります。
その最前列の中央にあるのが、大橋町から移した藤森稲荷だそうです。
石祠は、大橋町の大野区長が用意した新しいものですが、その前に置かれている一対の狐の石像、その両脇の石灯籠は大橋町にあったものと思われます。
この場所に置かれている祠のほとんどは御魂抜きされていますが、藤森稲荷は御魂が入ったままだそうです。
ここまで追跡してきた甲斐があったというものですが、ただ、宮司さんのこんな話が少し気になりました。
「大橋町から移したのは、藤森稲荷とは聞いてないですねぇ。
『大橋町の稲荷』というだけで・・・。
明治の終わりに高崎の各町内にあった神社は、全て高崎神社に合祀されたんです。
大橋町の藤森稲荷もその時に合祀されてるはずですからね。」
確かに、「追跡!藤森稲荷(其の壱)」に書いたように、「高崎の散歩道 第六集」にもそのように書かれてはいました。
ということは、お社を再建した時に、地域の人が昔親しんでいた「藤森稲荷」という名前で呼んでいただけなのでしょうか。
宮司さんにお礼を言って、烏子稲荷神社を後にしたその足で、高崎神社へ行ってみました。
ちょうど神殿に向かうところのご神官に、藤森稲荷のことをお聞きすると、しばらく首を傾げた後、「裏の方にいくつも石碑が建っているので、その中にあるかもしれない。」ということでした。
ありました、ありました!
西南の隅、恵徳寺との塀際に「正一位藤森稲荷大明神」と刻まれた石碑が建っていました。
たまたまなのか、意識してなのか、大きな欅の下に建てられています。
刻まれている碑文によると、これは明治四十年(1907)に高崎神社に合祀されたことを記念する碑だということです。
裏には、「大橋町」と刻まれています。
藤森稲荷の御魂は、やはり高崎神社にいらっしゃるのでしょうか。
ただ、とかくお稲荷さんは元の住まいへ帰りたがるものです。
「稲荷横丁」のお稲荷さんも、倉賀野の「冠稲荷」もそうでした。
もしかしたら藤森稲荷も、そーっと大橋町に戻っていたのではないでしょうか。
そう考えた方が、面白いとは思いませんか?
さてさて、追跡の旅はこれで終わるのですが、まだ気になることが一つ残っています。
それは、「藤森稲荷」という名前です。
「藤森」とはいったい何でしょう?
烏子稲荷神社の宮司さんとお話をしていて、そのヒントが掴めました。
そのお話は、「追跡!藤森稲荷(最終回)」で!
稲荷神社なのに、なぜか駐車場には「たぬき」が置いてあります。 →
こちらの宮司さん、なかなかお忙しい方でいつもお留守でしたが、やっとお会いすることができました。
宮司の山田道長さんはとても気さくな方で、いろいろと興味深いお話をして頂いた後、藤森稲荷が納められている場所まで案内して下さいました。
石段を上った本殿の右側に、いくつもの祠が置かれている場所があります。
その最前列の中央にあるのが、大橋町から移した藤森稲荷だそうです。
石祠は、大橋町の大野区長が用意した新しいものですが、その前に置かれている一対の狐の石像、その両脇の石灯籠は大橋町にあったものと思われます。
この場所に置かれている祠のほとんどは御魂抜きされていますが、藤森稲荷は御魂が入ったままだそうです。
ここまで追跡してきた甲斐があったというものですが、ただ、宮司さんのこんな話が少し気になりました。
「大橋町から移したのは、藤森稲荷とは聞いてないですねぇ。
『大橋町の稲荷』というだけで・・・。
明治の終わりに高崎の各町内にあった神社は、全て高崎神社に合祀されたんです。
大橋町の藤森稲荷もその時に合祀されてるはずですからね。」
確かに、「追跡!藤森稲荷(其の壱)」に書いたように、「高崎の散歩道 第六集」にもそのように書かれてはいました。
ということは、お社を再建した時に、地域の人が昔親しんでいた「藤森稲荷」という名前で呼んでいただけなのでしょうか。
宮司さんにお礼を言って、烏子稲荷神社を後にしたその足で、高崎神社へ行ってみました。
ちょうど神殿に向かうところのご神官に、藤森稲荷のことをお聞きすると、しばらく首を傾げた後、「裏の方にいくつも石碑が建っているので、その中にあるかもしれない。」ということでした。
ありました、ありました!
西南の隅、恵徳寺との塀際に「正一位藤森稲荷大明神」と刻まれた石碑が建っていました。
たまたまなのか、意識してなのか、大きな欅の下に建てられています。
刻まれている碑文によると、これは明治四十年(1907)に高崎神社に合祀されたことを記念する碑だということです。
裏には、「大橋町」と刻まれています。
藤森稲荷の御魂は、やはり高崎神社にいらっしゃるのでしょうか。
ただ、とかくお稲荷さんは元の住まいへ帰りたがるものです。
「稲荷横丁」のお稲荷さんも、倉賀野の「冠稲荷」もそうでした。
もしかしたら藤森稲荷も、そーっと大橋町に戻っていたのではないでしょうか。
そう考えた方が、面白いとは思いませんか?
さてさて、追跡の旅はこれで終わるのですが、まだ気になることが一つ残っています。
それは、「藤森稲荷」という名前です。
「藤森」とはいったい何でしょう?
烏子稲荷神社の宮司さんとお話をしていて、そのヒントが掴めました。
そのお話は、「追跡!藤森稲荷(最終回)」で!
【烏子稲荷神社】
【高崎神社の藤森稲荷石碑】