2009年11月22日

追跡!藤森稲荷(其の参)

紹介された、大橋町の元区長、山岸さんとお会いすることができました。
フルネームが山岸八郎さんとお聞きして、思い当たることがありました。

追跡!藤森稲荷(其の参)土屋喜英氏著「高崎漫歩」に掲載されている左の写真、その提供者が山岸八郎さんでした。

写真は三国街道ですが、大正時代はまだこんなに狭かったんですね。
大橋町の人々が、高崎公園まで歩いて花見に行く風景だそうです。

(※郷土出版社の「目で見る高崎・安中の100年」では、明治三十五年(1902)頃とされています。)

山岸家は、江戸時代に新潟柿崎から移って来て、まだほとんど家の無かったこの地で、酢饅頭の店を開いたのだそうです。
きっと三国街道を往来する人達が、一服したくなる場所だったのでしょう。

追跡!藤森稲荷(其の参)父君の山岸武次さんが、明治から大正にかけての大橋町の様子を、絵に描いて残してくれていて、右の絵がその1枚です。

周囲は一面の田んぼで、手前の小山のような所が、「電車みち」の記事で紹介した電車山です。
この頃は、ずいぶん広々として見通しがきいていたんですね。
当時を知る貴重な資料だと思います。

追跡!藤森稲荷(其の参)武次さんは、カメラの無い時代は絵で、カメラを持ってからは写真で、昔の大橋町の様子を記録しておられました。

八郎さんは、今、それらを引き継ぎ、きちんとアルバムに整理して、大橋町の歴史資料として編纂を進めていらっしゃいます。

追跡!藤森稲荷(其の参)そして八郎さんが出してくれたのが、武次さん撮影の右の写真です。→

当時、5軒長屋だった山岸さん宅の屋根上から、藤森稲荷方面を撮影したものだそうです。
前方に見える大きな木が、藤森稲荷にあったという榎の大木です。
左奥の蔵造りの大きな家が、藤森稲荷があった殿塚宅だそうです。

残念ながら、藤森稲荷そのものが写っている写真はありませんでした。
写真を持っていそうな方として、現区長の大野勝己さんを紹介して頂きました。
大野さんは、藤森稲荷上小塙烏子(すないご)稲荷神社に納める時、主体になって尽力された方です。
残念ながら、大野さんも写真はお持ちではありませんでしたが、烏子稲荷神社へ納める時のお話を伺うことができました。

館林に移っていた殿塚氏の依頼で、藤森稲荷のあった場所を更地にすることになったとのことです。
烏子稲荷神社の宮司さんにお願いし、藤森稲荷の社から御魂抜きをし、社に祀られていた狐の置物を新たに用意した石祠に移して御魂入れをした後、町内の方達と烏子稲荷神社まで納めに行ったそうです。
その後、空になった社は取り壊し、更地にしたということでした。

藤森稲荷の写真がないと聞くと、ますます写真の持ち主を捜したくなります。
昔、藤森稲荷の所で営業していたという、藤守湯の奥さんに電話でお尋ねすると、昭和二年(1927)に現在地に移転したそうですが、昭和三十四年(1959)に火災に遭い、写真も何も全て焼失してしまったということでした。
そして、あそこならと教えて頂いたクリーニング店さんにも、古いアルバムを探して頂きましたが、ありませんでした。

写真は諦めるとして、次は、烏子稲荷神社に移したという藤森稲荷がどうなったのかが、気になるところです。
後日、烏子稲荷神社へ行って、その辺のお話を含め、実に興味深いお話を聞くことができました。

そのお話は、また次回のお楽しみ!




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Posted by 迷道院高崎 at 07:52
Comments(10)藤森稲荷
この記事へのコメント
お江戸見たけりゃ高崎田町・・・・・

江戸時代になると城下町高崎を目指して多くの人が四方八方から商いを開いた。
米穀商、材木商、呉服商、糸商、油屋商、「油善」なんて如何にもそれらしき屋号、造り酒屋、醤油屋、酒屋、八百屋、魚屋などなど・・・・・
新潟方面から高崎に住み商いをする人が多かったようです。

高崎の歴史。

迷道院高崎さんが綴ればそれが新しい市史として残ります。ネット時代の・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年11月22日 09:22
パチパチパチパチ~ぃ!

続編、期待して待つ!

  夢寅 拝
Posted by 夢寅  at 2009年11月22日 18:06
>昭和24歳さん

今は、簡単にお江戸へ行けちゃうので、高崎はお江戸の真似をしても勝ち目は無いですね。

「お江戸見たけりゃ、お江戸へ行きな。
きなけりゃ分からぬ、高崎の良さ。」
といきたいもんです。

ところで「油善(あぶぜん)」、本店は柳川町にありましたが、そこの息子が東三条通りにガソリンスタンドを出していて、私、高校生の時そこでアルバイトしてました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年11月22日 19:36
>夢寅さん

嬉しい拍手を、ありがとうございます!

調子に乗って、其の四に取り組んじゃいます(^^ゞ
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年11月22日 19:41
>私、高校生の時そこでアルバイトしてました。

僕のカミサンの友だちもそこでアルバイトしてまして・・・・・
昭和50年頃でしょうか、東町の油善でときどきガソリン入れてました。
その後、カラオケボックスやったりしてましたね・・・・・
そういえば、藤巻くんもそこでとか、違うスタンドだったかな。

ところで東三条通・・・・・
ずいぶんと変わっちゃいましたね。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年11月23日 05:56
>昭和24歳さん

あれ?
もしかして、H田M子さんかな?
落語好きの藤巻君は、私と一緒ではなかったですね。

そうですね、東三条通り、あの頃は夜など裏寂しいような通りでしたけど。
私にとっては、青春の思い出多き通りです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年11月23日 07:45
>落語好きの藤巻君は、私と一緒ではなかったですね。

藤巻くんは群馬脳外の落語院長の従弟です。
その影響で中学の頃から手ぬぐいを腰にぶら下げてましたね。下駄をこよなく愛して(笑)。
僕とフォークソングの腕前を競ったのも藤巻くんでした・・・・・
ソレを教えてくれたのも群馬脳外の落語院長。

>H田M子さんかな?

違います。S塚S子さんです・・・・・
といっても、僕とカミサンは8歳離れてますので、S塚さんは昭和32年生3月3日生まれ。

>私にとっては、青春の思い出多き通りです。

ソレって淡雪のごとき青春ですか・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年11月23日 12:32
高崎神社南西の隅に藤森稲荷大明神(明治40年合祀)を発見しました!
Posted by 捨蚕  at 2009年11月23日 15:52
>昭和24歳さん

藤巻君、いい雰囲気してましたね。
そうか、そうでしたね。奥さん、年下でしたから、私がそのお友達を知ってるはずありませんでした(^^ゞ

淡雪のごとき青春、うーんそうですね。
青いレモンの味が・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年11月23日 19:50
>捨蚕さん

あっ、見つかっちゃいましたかー。

小学生の頃、毎日あそこの前を通っていたんですけど、ぜんぜん気にも留めてなかったんですね。
高崎神社の中も、ずいぶん変わってしまいましたが、懐かしくて懐かしくて、うす暗くなるまで境内にいました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年11月23日 19:58
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