倉賀野神社の社殿前に、石製の常夜燈が2基建っている。
神社入口の説明看板によると、この常夜燈は、倉賀野宿の旅籠「三國屋」の「つね」という飯盛女が寄進したものだという。
常夜燈を寄進できるほど稼ぐ飯盛女とは、さぞかし別嬪な、No.1ホステスだったに違いない。
倉賀野神社には、やはり飯盛女たちが寄進したという石玉垣が残っている。
寄進をした飯盛女の名前が刻まれているが、彼女達もトップホステスだったのであろう。
倉賀野宿は飯盛女たちの働きで栄えた宿場町だった、と言っても過言ではなかろう。
その飯盛女たちの信仰を集めていたのが、「冠稲荷(かんむりいなり)」である。
倉賀野神社境内の一角にある。
だが、実際に飯盛女たちが拝んでいたのは、ここにある「冠稲荷」ではない。
ここの「冠稲荷」は、社寺廃合令により明治42年(1909)、横町から倉賀野神社に合併されたものである。
昔は堀川だった、「太鼓橋」下の小道を南に行くと、民家へ入ってしまいそうな石段がある。
そこを上がったところにあるのが元の「冠稲荷」だ。
明治42年、倉賀野神社に合併された時に、ここにあった社殿は前橋川曲町の諏訪神社に売られ、常夜燈と石玉垣は倉賀野神社に移築された。
売られたはずの社殿が何故ここにあるかというのは、面白い話が伝わっている。
「冠稲荷」が倉賀野神社に移ってからというもの、町の人の夢枕にお稲荷さんが出てきては「元の場所に戻りたい・・・」と泣くのだそうだ。
どういう訳か、お稲荷さんというのはホームシックにかかりやすいらしい。(「稲荷横丁」のお稲荷さんもそうだった。)
そこで、町内の人たちが昭和11年に、ここに社殿を建て直したという。
全国にお稲荷さんは数あれど、別荘を持っているリッチなお稲荷さんは、そうはいないだろう。
そういえば、江戸時代の高級遊女を「おいらん」と言う。
「タヌキやキツネは尾を使って人を化かすが、
遊女が化かすにゃ尾は要らん。」というのが語源だそうだ。
ま、落語の中の話なので当てにはならない。
ともあれ、身を売って、死んでも故郷に帰れぬ境遇ながら、
文字通り身銭を切って寄進した飯盛女。
その心意気や如何!
翻って我が身を見れば、いまだ「足るを知る」の境地にあらず。
恥ずかしきかな、恥ずかしきかな。
神社入口の説明看板によると、この常夜燈は、倉賀野宿の旅籠「三國屋」の「つね」という飯盛女が寄進したものだという。
常夜燈を寄進できるほど稼ぐ飯盛女とは、さぞかし別嬪な、No.1ホステスだったに違いない。
倉賀野神社には、やはり飯盛女たちが寄進したという石玉垣が残っている。
寄進をした飯盛女の名前が刻まれているが、彼女達もトップホステスだったのであろう。
倉賀野宿は飯盛女たちの働きで栄えた宿場町だった、と言っても過言ではなかろう。
その飯盛女たちの信仰を集めていたのが、「冠稲荷(かんむりいなり)」である。
倉賀野神社境内の一角にある。
だが、実際に飯盛女たちが拝んでいたのは、ここにある「冠稲荷」ではない。
ここの「冠稲荷」は、社寺廃合令により明治42年(1909)、横町から倉賀野神社に合併されたものである。
昔は堀川だった、「太鼓橋」下の小道を南に行くと、民家へ入ってしまいそうな石段がある。
そこを上がったところにあるのが元の「冠稲荷」だ。
明治42年、倉賀野神社に合併された時に、ここにあった社殿は前橋川曲町の諏訪神社に売られ、常夜燈と石玉垣は倉賀野神社に移築された。
売られたはずの社殿が何故ここにあるかというのは、面白い話が伝わっている。
「冠稲荷」が倉賀野神社に移ってからというもの、町の人の夢枕にお稲荷さんが出てきては「元の場所に戻りたい・・・」と泣くのだそうだ。
どういう訳か、お稲荷さんというのはホームシックにかかりやすいらしい。(「稲荷横丁」のお稲荷さんもそうだった。)
そこで、町内の人たちが昭和11年に、ここに社殿を建て直したという。
全国にお稲荷さんは数あれど、別荘を持っているリッチなお稲荷さんは、そうはいないだろう。
そういえば、江戸時代の高級遊女を「おいらん」と言う。
「タヌキやキツネは尾を使って人を化かすが、
遊女が化かすにゃ尾は要らん。」というのが語源だそうだ。
ま、落語の中の話なので当てにはならない。
ともあれ、身を売って、死んでも故郷に帰れぬ境遇ながら、
文字通り身銭を切って寄進した飯盛女。
その心意気や如何!
翻って我が身を見れば、いまだ「足るを知る」の境地にあらず。
恥ずかしきかな、恥ずかしきかな。
【倉賀野神社】
【横町の冠稲荷】