
「本陣」は大名や上級武士の宿泊所、「脇本陣」は宿泊が重なった時などに使う予備宿泊所である。
それが3つもあるというのは、いかに倉賀野宿が大きな宿場であったのかを示すものである。
写真は「脇本陣」の須賀喜太郎家、道を挟んだ向かい側にもうひとつの「脇本陣」須賀庄兵衛家がある。
「本陣」は勅使河原家跡、現在、ベイシアマートのある場所である。
当然、大名以外にも倉賀野宿で宿泊する旅人は多いわけで、享和三年(1803)の記録では、64軒もの旅籠(はたご)があったという。
これら旅籠の大半が、飯盛女という名の女郎を置いていた。

この細い道、昔は倉賀野城の堀で、板橋が架かっていたが、夕立などによる出水でしばしば破損して、往来を妨げたという。
そこで、旅籠の旦那衆が相談の上、金二百両を出し合って石の「太鼓橋」に架け替えた。
だが、この二百両という金、実は女郎達から拠出させたものであったのだ。
女郎達が決してあり余る金を持っていた訳ではない。
それは、遠く越後などの百姓家が金に困った揚句、わずかな金で売られてきた年端もいかない娘が、からだを売ってコツコツと蓄えた金であった。
倉賀野宿で「藤浪屋」という旅籠を営んでいた、木部白満(きべ・つくもまろ)という人の生家に、「飯売下女年季奉公人請状」が残っている。
これは、越後国小千谷村の喜左衛門の娘「ちい」が、16歳で身売りされた時の証文である。
拾い読みをしてみよう。
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この度、よんどころ無き金子要用にて、諸親類相談の上、御当家へ連れ来たり・・・(略)
相きめの儀は、当申(さる:1824年)の八月より、来る卯(う:1831年)の二月まで、中六年六ヵ月、給金十八両と相きめ・・・(略)
万一、この者取逃がし、駆け落ちいたし候はば、早速たずね出し、相渡し申すべく候。
もし、行方相知れ申さず候はば、代り人なりとも、給金なりとも、思し召し次第に遊ばし申すべく候。
年季中、勝手がましく御いとまなど申し請けまじく候。
万一この者、頓死、病死、けが、あやまちにて、不慮に相果て候はば・・・、当国役人立会いの上、貴殿檀那寺におとり置き、後日に、法名お贈り下さるべく候。
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死んでも、故郷へ戻ることはできなかったのである。
年端も行かぬ娘の心細い気持ちはいかばかりかと、想像するに余りある。
「高崎の散歩道 第二集」の中に、倉賀野町にある、他国出身の娘の墓を調査した興味深いデータがある。
出身地を分類すると、26人中19人が越後出身。
没年齢を分類すると、
12~19歳が5人、
20~25歳が7人、
26~29歳が2人、
平均没年齢は、21歳3か月だという。
だが、もしかすると、墓に入れるだけ幸せだったのかも知れない。

この境内片隅に、飯盛女のものと言われる墓がある。

皈元 教滝信女
寛政十一巳未年 四月廿二日 北越後長岡産 字は滝
幼年より反哺のために当初のちまたに奉公し罷在
疾して行年二十にして身まかりぬ
死生の風に散りぬ 念悼みて是に立碑するもの也
施主 日野金井 和泉屋主人
女郎達の辛い涙で架けた「太鼓橋」。
忘れてしまっては、何とも情が無い。
せめて、欄干だけでも復元して、謂れを後世に伝えたいものである。
(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」「続・高崎漫歩」)
【太鼓橋跡と九品寺】