2009年08月26日

柴菴黒石翁のこと

柴菴黒石翁のこと「米街道を辿って」で見つけた「柴菴黒石翁碑」が気になっていて、調べてみました。

この碑はいわゆる「筆子塚」で、寺子屋のお師匠さんであった柴菴(庵)先生の生徒さんが建立した、頌徳碑でした。

柴菴先生は、文政七年(1824)柴崎村の農家の長男として生まれています。
本名は黒石磯吉ですが、自らは名を周寿、号を柴菴と称しました。

幼少の頃から学を好み、隣村の東中里村の名主・※五十嵐勘衛の寺子屋で書を習い、その後高崎藩儒者の江積源四郎の学習館で儒学を学び、さらに儒者の馬場大輔にも師事したという、猛烈な勉強家です。
(※五十嵐勘衛は、「久々の五万石ネタ」に登場する、
総代・佐藤三喜蔵の家屋を購入・移築した人物です。)

磯吉は貧しい農家の生まれであり、決して充分勉学できる環境にはなかったようです。
それでも忙しい農業の合間に、寸時を惜しんで学問に励み、その結果として「経史」に通ずるに至ったのだといいます。

碑の漢文の中でわずかに、無学の私にも見当のつく部分があります。
翁資性徳實而温和 翁の性格は徳実で温和
翁資性徳實而温和 信義を以って人と交わり
接衆以謙譲 謙譲を以って人々に接する
不凌上不侮下 目上の者を凌ぐことなく=敬い、目下の者を侮ることなく=馬鹿にせず
言簡而行直 言葉は簡潔で正直
未曽聞與人有争 いまだ他人と争ったということを聞いたことがない

まさに身を以って、子弟の手本になっていたんですね。

嘉永六年(1853)、29歳で自宅に「惟善堂(ゆいぜんどう?)」と名付けた寺子屋を開いています。
「善を惟(おも)う堂」と名付けた所に、柴菴先生の教育への哲学が感じられますね。

その後、明治五年(1872)の学制発布により、村に小学校が設立されたので、一時は寺子屋を廃業したそうです。
しかし、村の有志や教え子たちに勧められて、明治十年(1877)に官許を得て私学「黒石学校」を設立します。
対象は、義務教育の学齢を過ぎた14歳以上の者で、主に漢学を教える5年制の学校だったようです。

授業料は1年間で30円24銭。今だと幾らくらいなのでしょう?
仮に当時の1円が今の1万円だったとすると、年間30万円ちょいですか。
因みに、同じ頃の高崎市内の私学「積小学校」は年間60円、同じく「濯来社」は154円80銭だったそうです。

「黒石学校」は、教員数3人、生徒数は男子20名、女子3名という規模でしたが、明治二十二年(1889)、柴菴先生66歳での死去とともに閉鎖されました。

柴菴黒石翁のこと黒石家墓地に柴菴先生の頌徳碑が建立されたのは、明治二十六年(1893)でしたが、歳月を経て碑面の損傷が著しくなり、昭和五十一年(1976)更に大きな碑に建てなおされました。

特筆すべきは、古い頌徳碑を廃棄することなく、新しい碑の後ろにちゃんと残してあることです。

柴菴先生の教えが今に生きている証ではないかと、感慨深い思いがいたします。

(参考図書:「高崎市教育史」「高崎市掃苔録」)

【柴菴黒石翁碑】



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Posted by 迷道院高崎 at 08:15
Comments(2)米街道
この記事へのコメント
柴菴黒石翁の寺子屋や郷学のような教育施設が日本全国にあったからこそ、明治期の急速な近代化をなし得た、と思います。

幕末の志士や為政者に優秀な逸材が多く現れましたが、一般庶民の教育が広範になされ、読み書きそろばん(文盲率が低く)の基礎学力があったことも近代化の原動力になったのではないでしょうか。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年08月27日 12:03
>ふれあい街歩きさん

まったく仰る通りだと思います。
先日見たテレビで、シエラレオネの子供たちに「今、一番何がしたい?」と聞くと、一様に「学校に行きたい。」と答えてました。
古今東西、国力の源泉なのですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月27日 20:48
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    コメント(2)