
この碑はいわゆる「筆子塚」で、寺子屋のお師匠さんであった柴菴(庵)先生の生徒さんが建立した、頌徳碑でした。
柴菴先生は、文政七年(1824)柴崎村の農家の長男として生まれています。
本名は黒石磯吉ですが、自らは名を周寿、号を柴菴と称しました。
幼少の頃から学を好み、隣村の東中里村の名主・※五十嵐勘衛の寺子屋で書を習い、その後高崎藩儒者の江積源四郎の学習館で儒学を学び、さらに儒者の馬場大輔にも師事したという、猛烈な勉強家です。
(※五十嵐勘衛は、「久々の五万石ネタ」に登場する、
総代・佐藤三喜蔵の家屋を購入・移築した人物です。)
磯吉は貧しい農家の生まれであり、決して充分勉学できる環境にはなかったようです。
それでも忙しい農業の合間に、寸時を惜しんで学問に励み、その結果として「経史」に通ずるに至ったのだといいます。
碑の漢文の中でわずかに、無学の私にも見当のつく部分があります。
翁資性徳實而温和 | 翁の性格は徳実で温和 |
翁資性徳實而温和 | 信義を以って人と交わり |
接衆以謙譲 | 謙譲を以って人々に接する |
不凌上不侮下 | 目上の者を凌ぐことなく=敬い、目下の者を侮ることなく=馬鹿にせず |
言簡而行直 | 言葉は簡潔で正直 |
未曽聞與人有争 | いまだ他人と争ったということを聞いたことがない |
まさに身を以って、子弟の手本になっていたんですね。
嘉永六年(1853)、29歳で自宅に「惟善堂(ゆいぜんどう?)」と名付けた寺子屋を開いています。
「善を惟(おも)う堂」と名付けた所に、柴菴先生の教育への哲学が感じられますね。
その後、明治五年(1872)の学制発布により、村に小学校が設立されたので、一時は寺子屋を廃業したそうです。
しかし、村の有志や教え子たちに勧められて、明治十年(1877)に官許を得て私学「黒石学校」を設立します。
対象は、義務教育の学齢を過ぎた14歳以上の者で、主に漢学を教える5年制の学校だったようです。
授業料は1年間で30円24銭。今だと幾らくらいなのでしょう?
仮に当時の1円が今の1万円だったとすると、年間30万円ちょいですか。
因みに、同じ頃の高崎市内の私学「積小学校」は年間60円、同じく「濯来社」は154円80銭だったそうです。
「黒石学校」は、教員数3人、生徒数は男子20名、女子3名という規模でしたが、明治二十二年(1889)、柴菴先生66歳での死去とともに閉鎖されました。

特筆すべきは、古い頌徳碑を廃棄することなく、新しい碑の後ろにちゃんと残してあることです。
柴菴先生の教えが今に生きている証ではないかと、感慨深い思いがいたします。
(参考図書:「高崎市教育史」「高崎市掃苔録」)
【柴菴黒石翁碑】