「米街道を辿って(2)」の続きです。
「降照大明神」の石祠の前を東に進むと、丁字路があります。
直進すると、健康福祉大学の野球場です。
倒れそうに暑い中、若者たちの元気な声が辺りに響いていました。
米街道は、左折します。
「この先通り抜け出来ません」という看板が立っていますが、この先こそ米街道なのです。
看板なんぞ無視して、ずんずん進みましょう。
どうです!
いい雰囲気じゃありませんか!
当時もきっとこうであったろう稲田の中を、涼やかな風を受けながら進むと、井野川サイクリングロードに出ます。
男性が、軽やかにジョギングを楽しんでいました。
そのサイクリングロードで古道は途切れますが、対岸に石段があって、その右に道路に上がる道が見えます。
これが、かつての米街道の痕跡です。
明治四十年(1907)の地図をみると、ここに橋が架けられていたのが分かります。
その上がり道の左側に草ぼーぼーの一角がありますが、かつて、ここには「立て場茶屋」があったのだそうです。
「高崎の散歩道 第四集」の吉永哲郎氏によると、この土蔵の二階は博徒が博打を開帳する鉄火場として使われていたといいます。
しかも、お尋ね者の隠れ場ともなっていたらしく、ご年配の方ならきっとご存知の「毒婦 高橋お伝」も、東京から、生まれ故郷の利根郡水上へ逃げ帰る途中、ここに匿われたと書かれています。
近くで畑仕事をしている方に、
「ここに建っていたという、こんな建物を見たことがありますか?」とお聞きすると、
「あー、もう崩れかかってて危ないんで、確か十何年前に取り壊したんだいね。」と仰っていました。
まだ最近まで、あったんですね。
ちょっと勿体なく思いました。
この方に米街道のこともお聞きしてみました。
「米街道という名前は初めて聞いたけど、ここに橋が掛かってたっつぅ話は、親父に聞いたことがあるね。」
ということでした。
これが、対岸の米街道です。
この後、米街道は北上し、前橋・長瀞線と元島名・倉賀野線の合流点付近に出てさらに北上し、京ヶ島小学校の東側を通って、昭和大橋のたもとに出たようです。
そこからは、総社→大久保→八木原→渋川に至る三国古道(別名:佐渡奉行街道)を経て、遥か三国峠を越えて越後まで行ったと思われます。
宿場から宿場をまさに驛伝で送り継ぐとはいえ、越後から倉賀野までの長道中、本当に米を運んだのだろうかと、信じられない気持ちです。
田島桂男氏著「たかさき町しるべ」によると、「大類」という地名は井野川の氾濫原を表す「大流井」がもととなっているといいます。
川の氾濫は肥沃な土地を生みだすといいますから、大類地区も古くから穀倉地帯であったでしょう。
もしかすると、米街道というのは大類の米を倉賀野まで運ぶ道だったのではないかと、軟(やわ)な現代人の私は思ってしまうのですが・・・。
※この記事を脱稿後、「米街道を辿って(1)」に、ふれあい街歩きさんから次のようなコメントを頂きました。
「米街道という点では柴崎で交差する大類から高崎城下への道も、高崎藩有数の穀倉地帯である大類の村々から高崎藩の米蔵に年貢米を輸送する米街道であったと想像します。」
確かに、そう考える方が自然かも知れません。
ふれあい街歩きさん、ありがとうございました。
「降照大明神」の石祠の前を東に進むと、丁字路があります。
直進すると、健康福祉大学の野球場です。
倒れそうに暑い中、若者たちの元気な声が辺りに響いていました。
米街道は、左折します。
「この先通り抜け出来ません」という看板が立っていますが、この先こそ米街道なのです。
看板なんぞ無視して、ずんずん進みましょう。
どうです!
いい雰囲気じゃありませんか!
当時もきっとこうであったろう稲田の中を、涼やかな風を受けながら進むと、井野川サイクリングロードに出ます。
男性が、軽やかにジョギングを楽しんでいました。
そのサイクリングロードで古道は途切れますが、対岸に石段があって、その右に道路に上がる道が見えます。
これが、かつての米街道の痕跡です。
明治四十年(1907)の地図をみると、ここに橋が架けられていたのが分かります。
その上がり道の左側に草ぼーぼーの一角がありますが、かつて、ここには「立て場茶屋」があったのだそうです。
「高崎の散歩道 第四集」の吉永哲郎氏によると、この土蔵の二階は博徒が博打を開帳する鉄火場として使われていたといいます。
しかも、お尋ね者の隠れ場ともなっていたらしく、ご年配の方ならきっとご存知の「毒婦 高橋お伝」も、東京から、生まれ故郷の利根郡水上へ逃げ帰る途中、ここに匿われたと書かれています。
近くで畑仕事をしている方に、
「ここに建っていたという、こんな建物を見たことがありますか?」とお聞きすると、
「あー、もう崩れかかってて危ないんで、確か十何年前に取り壊したんだいね。」と仰っていました。
まだ最近まで、あったんですね。
ちょっと勿体なく思いました。
この方に米街道のこともお聞きしてみました。
「米街道という名前は初めて聞いたけど、ここに橋が掛かってたっつぅ話は、親父に聞いたことがあるね。」
ということでした。
これが、対岸の米街道です。
この後、米街道は北上し、前橋・長瀞線と元島名・倉賀野線の合流点付近に出てさらに北上し、京ヶ島小学校の東側を通って、昭和大橋のたもとに出たようです。
そこからは、総社→大久保→八木原→渋川に至る三国古道(別名:佐渡奉行街道)を経て、遥か三国峠を越えて越後まで行ったと思われます。
宿場から宿場をまさに驛伝で送り継ぐとはいえ、越後から倉賀野までの長道中、本当に米を運んだのだろうかと、信じられない気持ちです。
田島桂男氏著「たかさき町しるべ」によると、「大類」という地名は井野川の氾濫原を表す「大流井」がもととなっているといいます。
川の氾濫は肥沃な土地を生みだすといいますから、大類地区も古くから穀倉地帯であったでしょう。
もしかすると、米街道というのは大類の米を倉賀野まで運ぶ道だったのではないかと、軟(やわ)な現代人の私は思ってしまうのですが・・・。
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※この記事を脱稿後、「米街道を辿って(1)」に、ふれあい街歩きさんから次のようなコメントを頂きました。
「米街道という点では柴崎で交差する大類から高崎城下への道も、高崎藩有数の穀倉地帯である大類の村々から高崎藩の米蔵に年貢米を輸送する米街道であったと想像します。」
確かに、そう考える方が自然かも知れません。
ふれあい街歩きさん、ありがとうございました。
【米街道の立場茶屋跡】
【米街道を辿る散歩道 新・旧道比較地図】