2009年08月19日

米街道を辿って(1)

越後の米を江戸に運ぶため、倉賀野河岸に通ずる古道を「米街道」と呼んでいたといいます。(「高崎の散歩道 第四集」より)
その「米街道」の通り道にあったのが、前回ご紹介した「柴崎の辻」です。

米街道を辿って(1)今日は、その「柴崎の辻」から、愛車「赤チャリ号」に跨って越後方面(あくまでも方面です・・・)へ向ってみましょう。

「道しるべ」には「北 下大類ヲ経テ前橋市ニ至ル」と書いてあるものの、この付近は近年の道路建設によってまるで姿を変えています。

そこで、昔の地図を探しに県立図書館まで行き、明治四十年測量の地図を入手して、たぶんこの道だろうという見当をつけてみました。
米街道を辿って(1)

米街道を辿って(1)「柴崎の辻」から100mも行かぬ内に、左側の墓地の中に建っている、大きな石碑に目が留まります。

「柴菴黒石翁碑」と書いてあるようなのですが、碑文はすべて漢文。
暫くその前に佇んではみたものの、教養の無い悲しさで、何が書いてあるのか分かりません。

後で調べてみることにして(諦めて)、先へ進みましたが、150mも進むと、もう水田にぶつかってしまいました。
一旦右折して、「元島名・倉賀野線」に出て再び北進します。
調べてみました。→◇柴菴黒石翁のこと

米街道を辿って(1)すぐ、「下大類町西」交差点に出ますが、その先を見ると斜め右に入る細い道があるじゃありませんか。

この道に違いないと、先に進んでみます。
米街道を辿って(1)突き当りに出現するのが、屋根にシャチホコを乗せた大きな家です。

ここを、右折します。
米街道を辿って(1)少し行くと、小振りながら立派な造りのお宮がありました。
傍らには、「根岸満都多顕彰碑」というのが建っており、衆議院議員・中曽根康弘題額と書いてあります。
米街道を辿って(1)道なりに進んで直角に曲がると、キャッチボールをしている子どもがいます。(いつもいる訳ではありません・・・)
正面の倉庫を巻くように、右折し、左折すると「高崎・伊勢崎線」に出ます。
米街道を辿って(1)車に注意しながら横断すると、左前方に「福田寺」の大きな甍(いらか)が見えてきます。
正面の背の高いビルは、高崎健康福祉大学の短期部です。
突き当りを左折すると「福田寺」ですが、今日は右折します。

右折したら、なるべくゆっくり歩いてみて下さい。
「おっ!」と思うほど、昔の風情を残した風景や建物が、道沿いに沢山残っているのです。
かつてこの道が「米街道」であったということを、納得させる佇まいです。
米街道を辿って(1)米街道を辿って(1)米街道を辿って(1)米街道を辿って(1)

米街道を辿って(1)知らなければ通り過ぎてしまいそうな、ここが、古道への曲がり角です。

グンブロガーのDREAMさんが、「坂の向こうに…」で仰るように、曲がり角、坂、樹木に覆われた暗い道・・・には、「この先どうなってるんだろう?」という、不思議な期待感を覚えます。

男はいつまで経っても子どもだなぁと思うのは、こんな時です。
長くなってきましたので、この続きは、また次回ということに。

【今日の散歩道】
米街道を辿って(1)


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Posted by 迷道院高崎 at 08:27
Comments(11)米街道
この記事へのコメント
男もすなるプチ冒険といふものも
女もしてみむとてするなり。

今朝読んでプリントアウトまでしてから出かけたのに、
行きつかず、断念....。出直します。
Posted by AO  at 2009年08月20日 09:32
高崎の地は、実に歴史深いのですね・・・・・
先週の、暴れん坊将軍でも高崎藩のお家騒動をやってました。
何せ、駿河大納言様が自害、そしてその廟もというところです。

そして、明治新政府は慌てふためくようにして高崎城を解体に至らしめました。
なにがったんでしょうか?なにが???
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年08月20日 17:59
>AOさん

案内が分かりにくかったですかね?
ごめんなさい。
でも、すんなり分かるよりもミステリアスでな方が、冒険チックでいいかも知れませんよ。
って、すぐ自分を正当化するのが悪い癖です。
米街道の第2弾は、日曜日にUP予定です。お楽しみに。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月20日 19:58
>昭和24歳さん

松平輝高が幕府老中になったあたりから何かと物入りになって、その後の天変地異、領民の耕作放棄、百姓一揆、やむを得ぬ減税などで、廃藩置県の頃にはどうしようもない財政赤字だったようですね。
そこで、廃城に伴い、城内の樹木やら、建物やら、売れるものはすべて売ってしまったと聞きます。
人ごとじゃ、ありませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月20日 20:32
>どうしようもない財政赤字だったようですね。

現在の高崎藩も財政難だそうです(笑)。
ならば、増税ではなく売れるもんは売ってほしいですね。土地公社の塩漬け土地とか高層庁舎の上階部をオフィスにテナントするとか・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年08月21日 05:38
>昭和24歳さん

そうですね、売ったお金で町なかの閉まったお店を買い取って、城下町再生でもしてもらうと嬉しいですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月21日 08:10
今朝、一字一句このとおりに行ってきました。
それでは冒険ではありませんね。

単なる田舎道も歴史の夢を馳せると輝きます。
これこそ男の浪漫です。

坂を降りたい衝動に駆られながら、
折り返し福田寺に寄って戻りました。

そしたら続きのブログが出てるじゃない....。
また出直しです。 オー!(笑)
Posted by AO  at 2009年08月21日 12:18
>AOさん

あ、こりゃまた失礼いたしました!
書き始めると、ついつい長くなってしまいまして、3回に分けることになってしまいました。
日曜日にUPする記事で「米街道」シリーズは完結いたしますので、いま暫くお待ちください。

それにしても、私の記事をこれほどご愛用頂いているとは、ぐうたらな私にとって、とても励みになります。
ありがとうございます!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月21日 19:30
はじめまして。
ネット検索をしていてたどり着きました。


緻密な現地取材に基づいた記事で、思わず引き込まれてしまいました。


越後のお米を倉賀野河岸に廻送する際には三国街道を経由したと思われますが、そのまま高崎宿で中山道に入って倉賀野を目指さないで、前橋、大類を経由する道を利用したのは、高崎城下の混雑や藩とのトラブルを避けてのことと思います。
現代において、本町や田町の渋滞を嫌って環状線や長瀞線にバイパスする行動を見ていると、時代は変わっても発想は同じなのかな、と感慨深いですね。

また、米街道という点では柴崎で交差する大類から高崎城下への道も、高崎藩有数の穀倉地帯である大類の村々から高崎藩の米蔵に年貢米を輸送する米街道であったと想像します。

最後に柴崎の道標ですが、表記に「前橋市」「玉村町」とあるので明治中期以降の設置と見ました。
このことは前橋、倉賀野間の米街道、高崎、玉村間の街道共に少なくとも明治中期にはまだまだ現役であったことを物語っていますね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年08月22日 16:34
>ふれあい街歩きさん

的確なコメント、ありがとうございました。
お目に留めて頂き、大変光栄です。
学生時代は大嫌いだった歴史ですが、今ごろ郷土史に興味を持ち始め、あちこち歩き回っています。

米街道については、私も何となく「大類の米を運んだ道」をそう呼んだのではないかと思い始めています。

柴崎の道標もご指摘の通りかもしれません。
実は、道標の根元と思われるものが、並んで残っているのです。
たぶん、何らかの原因でぽっきり折れてしまい、建て直したもののように思われます。

これからも、何かお気づきのことがありましたら、ぜひお教えください。
よろしくお願い致します。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月22日 23:06
>迷道院高崎様

大変恐縮しております。
こちらこそ勉強させていただきます。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年08月23日 00:37
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