
講師は、郷土史家で高崎五万石騒動研究会員の萩原慧先生です。
五万石騒動の背景や運動の顛末、その後の伝承運動など、熱のこもった講演で、ついに御伝馬事件の話まで辿りつきませんでしたが、大変興味深く面白くお話を伺うことができました。
先生のお話を伺いながら、今と似てるなーと思いました。
長年続いた幕府政治から、明治新政府への政権交代。
農業では生活が成り立たないと訴える農民。
年貢の公民比を5:5にして欲しいという地方の訴え。
期待される新政府と、戸惑い混乱する旧政府(高崎藩)。
など、など・・・。
お話の中で、驚いたことがひとつあります。
下中居村の大総代:佐藤三喜蔵の住居が、中里村(現高崎市東中里町)に移築されて現存しているという情報です。
頂いた資料に、こう書かれていました。
「明治五壬申年(1872)、家屋新築ノ挙、同年一月二十一日、下中居村佐藤三喜蔵氏家屋ヲ曽テ買取置シ故、本日之ヲ引キ取ラント欲シ・・・」
「中里村 五十嵐勘右衛門長男 五十嵐喜一作成」とあります。

しかし、行ってみるとそれらしきものは、跡形もありませんでした。

三喜蔵宅をなぜ残せなかったのかなぁ、とずっと思っていたのです。
前回の記事で、高崎城の「しゃちほこ」と「裏門」を探しに、栗崎町と台新田町を探索しましたが、東中里町もすぐそばです。
ついでと言っては何ですが、移築されたという三喜蔵の家を探してみることにしました。

表札には、五十嵐勘衛と書かれていますので、五十嵐勘右衛門さんのご子孫と推察しました。
念のため確認をしようとチャイムを押しましたが、、残念ながらお留守でした。
お隣の家もまた、五十嵐姓の立派なお屋敷でしたので、図々しくお尋ねしたところ、間違いありませんでした。
その方のお話では、「明治四年(1871)に火災にあって家が焼失したため、三喜蔵の家をここに移築したと聞いている。」とのことでした。
先の文書に、「買取代価は金百六拾両なり」とあります。
どのような経緯で、三喜蔵の家を買い取ることになったかはわかりません。
ただ、多くの農民を率いての訴願活動は、おそらく莫大な出費だったことでしょう。
しかも、明治三年(1870)に三喜蔵が処刑されてしまった家の家計は、さぞかし苦しかったことでしょう。
三喜蔵は民を救うために、文字通り、財も命も投げ出した訳です。
五十嵐家が、そんな三喜蔵家を救う意味もあって、家屋の買取をしていたのではないでしょうか。
五万石騒動を伝える貴重な史跡として、この家をずっと残していってほしいものです。
【三喜蔵宅があったところ】
【三喜蔵の墓】
【移築された三喜蔵宅】