2023年05月20日

高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

行けば四つ辻連雀町
ここも商業繁華の地
郵便局や新聞社
警察本部に郡役所

旧高崎城内に群馬県庁が置かれた明治五年(1872)、新紺屋町「金剛寺」「警察事務所」が置かれました。
高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所
「東宝映画館」があった所ですね。
「金剛寺」は慶長四年(1599)に箕輪から移ったと伝わっていますが、明治二年(1869)に江木町「無縁堂」に合併され、明治八年(1875)には廃寺になっています。

一時連雀町「安国寺」に置かれた「警察事務所」は、明治九年(1876)「高崎警察署」と改称し宮元町の町角に新築移転します。
しかし、その建物は狭隘と粗造という理由で、翌明治十年(1877)立派な二階建洋館を連雀町に新築して移転したのです。
高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

警察組織は昭和二十三年(1948)国家警察と自治体警察(市警察)に二分され、「高崎警察署」「高崎市警察署」と改称されます。
翌二十四年に宮元町に移転されますが、昭和二十九年(1954)群馬県警察に統合されて、呼称はまた「高崎警察署」に戻りました。
高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

昭和四十八年(1973)台町「県立高崎商業高校」跡地に移転し、現在に至ります。

つぎの「郡役所」は明治十一年(1878)の創立です。
この年、群馬県は利根川を境に東西に分割され、左岸(前橋側)を「東群馬郡」、右岸(高崎側)を「西群馬郡」とし、前橋高崎にそれぞれの「郡役所」を置いたのです。

高崎は、明治五年(1872)に定められた行政区画「大小区制」により「第五大区」となり、その「区務所」宮元町にあったので、それを「西群馬郡役所」にあてました。
高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所
なかなかおしゃれな洋館です。

明治十一年(1878)の明治天皇東北御巡幸の際には行在所として使われ、翌年は皇太后伊香保行啓の際にも御宿所にあてられたそうです。
しかし残念なことに明治二十八年(1895)四月、付近からの出火により灰燼に帰したとのことです。

類焼後、通町の大信寺に仮庁舎を置きましたが、十二月には連雀町に新庁舎を新築します。
その翌年明治二十九年(1896)の郡区制改正により、「東群馬郡」「勢多郡」になったことで、「西群馬郡」は「西」が取れて「群馬郡」になりました。
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当時の高崎は、まだ小さな「高崎町」でした。
高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

明治三十三年(1900)高崎「市」になって「群馬郡」から離脱しますが、「郡役所」は大正十五年(1926)に廃止されるまで高崎市に残っていました。
高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

連雀町「警察署」「郡役所」の跡地は、つい最近までその関連施設に使われていました。
高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

その跡地に造られた「藤五デパート」がなくなったのは、ずいぶん前のような気がするのに・・・。





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Posted by 迷道院高崎 at 06:00
Comments(10)高崎唱歌
この記事へのコメント
お世話になります、いつも御投稿を拝見して勉強させて頂いております、ひとつ気になりましてご連絡させていただきます、現在中紺屋町に「MAKAKONYA」と言う古民家施設がありますが、あちらは元々どのような場所だったのでしょうか。
ご一報頂けましたら幸いです。
追伸、蔵付属の物件のようですが。
Posted by 井手海太  at 2024年09月05日 10:44
>井手海太さん

いつも見て頂き、ありがとうございます。
「NAKAKONYA」は、大正5年築の民家だったそうです。
もともとがどんなお宅だったのかは分かりませんが、15年ほど前は日本舞踊を教える「日本舞踊稽古所」でした。
そのころの写真が載っている過去記事がありますので、ご覧ください。
https://inkyo.gunmablog.net/e30567.html
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2024年09月05日 19:09
 御投稿者様
早速のご返信平身低頭、誠に感謝申し上げますこれで「NAKAKONYA」へ見学へ行く具体的なたのしみが与えられました、往時を偲び、高崎の時を満喫させていただきます。
 井手頓首

 追伸、質問をためらいながらも、また、ひとつ気になりましたが、御所蔵の「高崎住宅案内図 昭和36年版」にも、やはり「日本舞踊稽古場」と記載されているのでしょうか。
Posted by 井手海太  at 2024年09月05日 21:50
>井手海太さん

昭和36年の「住宅案内図」ではそう記載されたところはありません。
ただ、「茶道教授」と書かれている家があるので、おそらくここが後に「日本舞踊稽古場」になったんじゃないかと思います。
地図と違って、家屋の形や間口の大きさが分からないので、あくまで推測ですが。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2024年09月06日 19:44
 
 またまた、貴重な「茶道教授」という、お話を聞かせていただきうれしい限りです、高崎宿古地図で各当地を探し出しどのように記載されているか、確かめるのがたのしみになります。

 井手頓首
Posted by 井手海太  at 2024年09月07日 20:17
>井手海太さん

古地図というのは見ていて楽しいですよね。

明治37年の「群馬県営業便覧」を見ると、むかし「古着横丁」と言われた「NAKAKONYA」のある通りは、その名のとおり古着商が軒を連ねているのですが、その中に生絹太織問屋を営んでいた中島仙助という人の家があります。
もしかすると、「NAKAKONYA」はその人の家だった可能性もありますね。
確かめてみて下さい。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2024年09月08日 20:08
 迷道院高崎様

 喜色満面、歓喜の至りです、「正絹太物」、「中島仙助」具体的なご教示ありがたく思います、月末に高崎中央図書館にての地図探しがたのしみです。

井手頓首
Posted by 井手海太  at 2024年09月09日 15:42
 追伸、そうなりますと、現在中紺屋に残っている明治元年の蔵は、正絹太物保管用の倉庫であった可能性を感じます。
Posted by 井手海太  at 2024年09月09日 15:46
>井手海太さん

そうですね。
図書館での調査、お楽しみができて何よりです。
結果が分かったらまた教えて下さい。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2024年09月09日 19:55
 井手頓首

 承知致しました、後日ご報告申し上げます。
 井手頓首
Posted by 井手海太  at 2024年09月10日 04:06
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