2012年01月10日

藤五のこと

過去記事「とある商店と、旧貿易会館」に、偶然ご来訪頂いたというJKさんからコメントを頂きました。

はじめまして。
藤五について調べていて、ここに辿り着きました。
少々お知恵をお貸し下さい。
藤五デパートは昭和39年に開業しましたが、 それ以前も様々な商品を扱うお店として営業していたと聞きます。
そのお店がどんな形態で、いつから始まり、どのへんにあったか、ご存知ないでしょうか?
倒産してかなりの歳月が流れており、なかなか調べることができません。覚えていることがおありでしたら、どうぞお教え下さい。」


「藤五デパート」の前身については、他のことを調べている時にサラッと通過読みした覚えがあるのですが、確かなことが分からず、JKさんには少しお時間を頂くことに致しました。

図書館で調べると、いろいろな本に「藤五」や創立者の「野口貞一」氏のことが出てくるのですが、どれも概略で、JKさんのご要望を満足させる記述ではありませんでした。

そんな時思い出したのが、連雀町の語り部・雀の子さんのことです。
メールを差し上げると、早速素晴らしい情報が返ってきました。
昭和三十五年(1960)発行の、吉野五郎氏著「商人物語」に、野口貞一氏と「藤五」のことが詳しく書いてある、とのことでした。
繊維問屋・国光(株)の創業者、高崎商工会議所副会頭の時に、(株)「藤五」の立ち上げに関わった。

では、その中に書かれている野口貞一氏と「藤五」について、かいつまんでご紹介します。

野口貞一は明治四十五年(1912)四月七日、野口定次郎・春子の次男として、東京花川戸に誕生。
八歳の時に父と母を続けて亡くし、父の出身地甘楽郡新屋村の伯父(父の実兄)・和三郎に預けられることととなります。
しかしその伯父も、田畑・土地の一切を知人の借金のかたに取られ、赤貧洗うが如しという悲惨な生活に陥り、毎日のヤケ酒がたたってついに命を落としてしまいます。

小学6年生にして天涯の孤児となった貞一は、隣町福島町「塚本呉服店」に店員として住み込むことになりました。
これが、後に独立して「藤五」を創設する第一歩となった訳です。
幼い頃からの苦労と勉強熱心さが、貞一「塚本呉服店」第一の働き手に成長させました。

昭和七年(1932)「塚本呉服店」は、高崎鞘町に出張所を出すことになり、二十歳の貞一が責任者として采配を振るいましたが、運転資金が回らず、8年程で内整理のやむなきに至ってしまいます。
しかし、この時の商店経営や従業員を使うという経験は、貞一に大きな力をつけさせたようです。

太平洋戦争が始まると、貞一「塚本呉服店」から横須賀の海軍工廠に徴用されます。
終戦になって、奥さんの実家のある前橋に住んでいましたが、高崎に戻って昭和二十一年(1946)に松本という人と服地店を協同経営します。
屋号は、松本「松」と、野口「野」をとって「松野屋」と名付けました。

「松野屋」は服地店といいつつも、戦後の物資不足のために、食料品、菓子、八百屋となんでも商ったようです。
貞一は5年間この「松野屋」で手腕を振るいますがこれに満足せず、独立するのに適当な場所を物色していたところ、卸業・正木屋商店高橋社長の好意で、中紺屋町の角に店舗を借りることができました。

藤五のこと繊維小売店「藤五」の誕生です。
昭和二十六年(1951)[昭和二十五年説もある。]貞一四十歳の時です。
因みに、「藤五」という屋号は、野口家の先祖が東京花川戸で回漕問屋を営んでおり、藤屋五郎次という名から「藤五」という屋号を使っていたので、これを踏襲したのだそうです。

売場面積15坪弱の「藤五」でしたが、貞一の才覚で、開業第1期7ヵ月間で6千万円の売り上げ、4年後には年間1億5千万円を記録しています。
高崎の同業小売店100店を追い抜き、堂々第一位の売り上げとなった「藤五」は、売場面積の限界に達したため、昭和三十二年(1957)鞘町「有賀百貨店」を買収して移転し、さらに売り上げを伸ばしていきます。

藤五のことそして昭和三十九年(1964)には、旧高崎警察署のあった連雀町の大敷地に、本格的な百貨店「藤五デパート」を誕生させます。

「藤五デパート」は地下1階、地上5階で屋上には遊園地を設けて集客力を増し、年商100億円を突破する勢いでした。

その後、昭和四十四年(1969)「伊勢丹」と資本提携し、昭和四十八年(1973)には「藤五伊勢丹」と改称することになります。
昭和五十四年(1979)貞一が六十七歳で他界した後、昭和五十七年(1982)「高崎伊勢丹」となって「藤五」の名が消え、昭和六十年(1985)にはついに店は閉じられてしまいました。

藤五のことここに、ある方から頂いた一枚の風呂敷があります。

5本の藤の房が描かれ、「高崎 藤五」と染め抜きがあります。

昭和の高崎を駆け抜けた立志伝中の人物、野口貞一氏を偲び、私の宝物にしたいと思います。

野口貞一氏のことを、もっと知りたいと思われた方は、ぜひ、図書館で吉野五郎氏著「商人物語」をお読みください。
「約束・励行」を経営信条とした、野口貞一氏の人となりがよく分かる一冊です。
また、かつての高崎商人の心意気も感じられると思います。

最後になりましたが、「藤五」野口貞一氏の素晴らしい歴史を調べるきっかけを与えて下さったJKさん、そして雀の子さんに、心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。

【関連ブログ】
 ◇「“藤五”高崎百貨店百花繚乱にて候・・・・」(黄昏て“爺放談”)






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Posted by 迷道院高崎 at 22:15
Comments(16)高崎町なか
この記事へのコメント
そうですか・・・・・

有賀園から藤五、昭和32年って、僕ら小2でしたね担任は清水先生、女性。

で、正木屋は高橋くんちです「ぼんちゃん」って呼ばれてました。
まあ、あの時代の大店でした「正木屋」、そうです、今の中銀駐車場のところ。
何度か遊びに行ったことありましたけど、店員さんが「ぼんちゃん」って呼んでましたね。
つまり、関西の、確かお姉さんと妹さんがいたんだけど、あっ、弟さんもいました。
まあ、お姉さん、妹さんなら「いとはん」でっしゃろか(関西弁風)。
そうなんですね、「正木屋」、大店でした。
あっ、「吉野藤」の吉野(息子)さんにはバンドマン時代お世話になってます(汗)。
それにしても、「藤五」の歴史って、高崎の歴史ですね、さすが、迷道院さん!!
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2012年01月11日 07:05
>昭和24歳さん

いろいろな情報、ありがとうございました。
昭和24歳さんの記憶力に、改めて感服です!

あの頃の中央銀座の賑わいは、時代もあったのでしょうが、元気な各商店主によることも大きかったんでしょうね。

「商人物語」には、「吉野藤」の吉野藤一郎さんのことも詳しく書かれていて、金もうけだけを追わない「商人の心得」を大切にしていたことが分かります。

ある意味で、いい時代だったんですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年01月11日 09:39
「藤五」懐かしいですね。子供の頃、母親に連れられて鞘町の店に行ったことを覚えています。
デパートになってからは、「藤五」「八木橋」とまわって「八木橋」の最上階にあったレストランでプリンを食べさせてもらうのが、休日の買物コースでした。
Posted by ちゃかぼー  at 2012年01月11日 11:25
>ちゃかぼーさん

お久しぶりです!

私も、子どもの頃のデパート巡りはよくやりました。
でも、プリンは食べられませんでしたが。

あの頃の子どもにとっては、一種のテーマパークだったような気がしますね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年01月11日 19:49
いい加減な情報で失礼しました。

藤五さんの場所については、随分間違った情報をお伝えしまい。申し訳ございませんでした。

今日、町内の方にお聞きしたところ、最初が中紺屋町の、旧正木屋さんの脇で、それから鞘町の現本店たかはしさんの場所に移動したようです。
正木屋さんの脇は、間口はともかく、奥行きは大変狭く、あそこでそのような売上があったのは、すごいことだったのでしょうね。
コメント欄に正木屋の息子さんのことが出ていて懐かしく思いました。「ぼんちゃん」と呼ばれていましたね。
お姉さんが同級性でした。また、父親どうしも同級生だったようです。
ついでに言えば、正木屋の高橋さんと、前橋煥乎堂の高橋さんは親類で、煥乎堂も昔は高崎に(おそらく旧正木屋の辺)ありました。

今では、藤五も、吉野五郎さんの国光も、正木屋
も亡くなってしまいました。時代の流れはある意味で残酷です。
Posted by 雀の子  at 2012年01月11日 20:45
>雀の子さん

いえいえ、とても助かりました。
「商人物語」のことを教えて頂かなかったら、ここまで分からなかったと思います。
ありがとうございました。

昔の人は、身近な郷土の歴史をよく記録に残しておいてくれてますね。
現代の人は、それを伝えていく責任があると思います。

時代の流れは、仰るような一面を持ってますね。
それもまた、その後の人の良き教科書になるんじゃないでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年01月12日 09:30
迷道院高崎様

このたびは大変に有意義な情報をご提供頂き、心より御礼申し上げます。失礼ながらこれほどまでに詳細な情報を得ることができるとは思ってもみませんでした。本当にありがとうございます。
実は私の母が藤五の社員だったのですが、高齢による物忘れが激しく、是非とも藤五について調べて欲しいと懇願されたことが、迷道院高崎様に情報のご提供をお願いするきっかけとなりました。もちろん、ご提供頂いた情報に母も大満足しております。
重ね重ね、御礼申し上げます。
Posted by JK  at 2012年01月14日 16:49
>JKさん

いえいえ、私の方こそお礼を申し上げなければ。
おかげさまで、また高崎の歴史を一つ勉強することができました。
ありがとうございました。

お母様が藤五にお勤めだったとか。
もしかすると、お世話になっていたかもしれませんね。
よろしくお伝えください。

これからも拙ブログに、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年01月14日 19:48
迷道院高崎様

初めまして。神奈川県川崎市に住む池田彰と申します。
吉野五郎の三女と結婚をし、昭和41年から昭和64年まで、八千代町に居りました。
藤五には、昭和41年に就職し昭和60年2月まで勤めておりました。
JKさんのお母様が藤五にお勤めの由、お名前(旧姓)を伺えば多分存じ上げている方と思います。
昭和が平成に変わる時に高崎から川崎に移りました。
私自身は川崎育ち(昭和19年3月生)ですので、高崎の事は」、故五郎から教わりました。
今日は、吉野五郎でネット検索をして、このブログに辿り着きました。
懐かしく読ませて戴きました。
ありがとうございます。
Posted by  池田 彰  at 2013年02月25日 15:38
>池田彰様

あらーっ、なんというご縁でしょうか!
JKさんがこのコメントを見たら、さぞかしびっくりなさるでしょうね。
残念なことに、JKさんへご連絡する術がありません。
このコメントを見てくれることを祈るばかりです。

JKさん、もしご覧になっていたら、オーナーへのメッセージからメールアドレスをお教え下さい。

池田さま、嬉しいコメント、本当にありがとうございました。
主に高崎のことを記事にしておりますので、これからもよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年02月25日 22:44
初めましてcafeあすなろの杉山と申します。高崎経済大学2年です。メールを送ろうとしたのですが、コメントになってしまいました。すいません。
 本題なのですが、12月16日に高崎の街中の思い出をデパートやアーケード街、映画館といった市民生活に繋がりのある施設の歴史を振り返りながら、思い出をお客様に語っていただく企画を行う予定です。そのイベントに関して、アドバイス等頂けたらと思って連絡させて頂きました。
もしよろしかったら、返信を何かの方法で頂きたいです。コメント欄確認しておきます。
Posted by 杉山大介  at 2017年11月29日 17:55
>杉山大介様

コメント、ありがとうございます。

面白いことを企画されてますね。
アドバイスなどというものができますかどうか。
自信はありませんが、何かのお役に立てれば嬉しいです。

ブログのサイドバーの下の方に、「オーナーへメッセージ」ということで「メッセージを送る」ボタンがあります。
そこから入って頂くと、杉山様のメールアドレスも送れますので、お試しください。

よろしくお願いいたします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年11月29日 19:47
懐かしく読ませていただきました。私は野口貞一様と開店間もない頃藤五百貨店の前の平和タクシーの乗り場に通じるアーケード街のそば屋でアルバイトをしていた縁で野口社長がよく食べに来たので親しくなり、それが縁で昭和41年に入社しました。今でも尊敬している生涯忘れ得ぬお方です。
Posted by 吉田覚  at 2020年04月26日 12:21
>吉田覚様

コメント、ありがとうございます。

人の縁というのは不思議なものですね。
私は今、貞一様のご子息・禎一郎様とご縁を頂いております。
吉田様が拙ブログにご訪問頂いたのも、また何かのご縁かと思います。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2020年04月26日 21:13
その後の経緯を存じ上げずお返事が大変遅くなりました。心よりお詫び申し上げます。
早速ですが母の藤五における勤務歴についてご説明致します。

母が藤五に入社したのは昭和33年です。つまり有賀百貨店の跡地でその就業を始めたわけです。
担当は花形の1階呉服売り場。専務がイケメンで密かに狙っていたそうです(笑)。
昭和36年には高鉄局勤務の国鉄職員と婚姻をし長女を儲けましたが仕事は昭和41年3月まで続けたそうです。
退職の理由は長男を妊娠したから。2人の子育てと職業生活の両立は不可能と判断したのでしょう。つまり私が母から仕事を奪ったのです(笑)。
大変残念ですが池田様や吉田様との邂逅はなかったか、あっても刹那であったと思われます。

本店タカハシの本店が6月に閉業します。浪花屋はすでにその看板を下ろし、高崎の街は刻々と変化しております。とても寂しいことですが、しかしこれもまた成長のための変化と受け止めております。
Posted by JK  at 2022年04月04日 15:46
>JKさん

お久しぶりです。
お母様のお話、ありがとうございました。

成長のための変化、そうあって欲しいです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2022年04月05日 20:20
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