過去記事「とある商店と、旧貿易会館」に、偶然ご来訪頂いたというJKさんからコメントを頂きました。
「藤五デパート」の前身については、他のことを調べている時にサラッと通過読みした覚えがあるのですが、確かなことが分からず、JKさんには少しお時間を頂くことに致しました。
図書館で調べると、いろいろな本に「藤五」や創立者の「野口貞一」氏のことが出てくるのですが、どれも概略で、JKさんのご要望を満足させる記述ではありませんでした。
そんな時思い出したのが、連雀町の語り部・雀の子さんのことです。
メールを差し上げると、早速素晴らしい情報が返ってきました。
昭和三十五年(1960)発行の、吉野五郎※氏著「商人物語」に、野口貞一氏と「藤五」のことが詳しく書いてある、とのことでした。
では、その中に書かれている野口貞一氏と「藤五」について、かいつまんでご紹介します。
野口貞一は明治四十五年(1912)四月七日、野口定次郎・春子の次男として、東京花川戸に誕生。
八歳の時に父と母を続けて亡くし、父の出身地甘楽郡新屋村の伯父(父の実兄)・和三郎に預けられることととなります。
しかしその伯父も、田畑・土地の一切を知人の借金のかたに取られ、赤貧洗うが如しという悲惨な生活に陥り、毎日のヤケ酒がたたってついに命を落としてしまいます。
小学6年生にして天涯の孤児となった貞一は、隣町福島町の「塚本呉服店」に店員として住み込むことになりました。
これが、後に独立して「藤五」を創設する第一歩となった訳です。
幼い頃からの苦労と勉強熱心さが、貞一を「塚本呉服店」第一の働き手に成長させました。
昭和七年(1932)「塚本呉服店」は、高崎の鞘町に出張所を出すことになり、二十歳の貞一が責任者として采配を振るいましたが、運転資金が回らず、8年程で内整理のやむなきに至ってしまいます。
しかし、この時の商店経営や従業員を使うという経験は、貞一に大きな力をつけさせたようです。
太平洋戦争が始まると、貞一は「塚本呉服店」から横須賀の海軍工廠に徴用されます。
終戦になって、奥さんの実家のある前橋に住んでいましたが、高崎に戻って昭和二十一年(1946)に松本という人と服地店を協同経営します。
屋号は、松本の「松」と、野口の「野」をとって「松野屋」と名付けました。
「松野屋」は服地店といいつつも、戦後の物資不足のために、食料品、菓子、八百屋となんでも商ったようです。
貞一は5年間この「松野屋」で手腕を振るいますがこれに満足せず、独立するのに適当な場所を物色していたところ、卸業・正木屋商店の高橋社長の好意で、中紺屋町の角に店舗を借りることができました。
繊維小売店「藤五」の誕生です。
昭和二十六年(1951)[昭和二十五年説もある。]、貞一四十歳の時です。
因みに、「藤五」という屋号は、野口家の先祖が東京花川戸で回漕問屋を営んでおり、藤屋五郎次という名から「藤五」という屋号を使っていたので、これを踏襲したのだそうです。
売場面積15坪弱の「藤五」でしたが、貞一の才覚で、開業第1期7ヵ月間で6千万円の売り上げ、4年後には年間1億5千万円を記録しています。
高崎の同業小売店100店を追い抜き、堂々第一位の売り上げとなった「藤五」は、売場面積の限界に達したため、昭和三十二年(1957)鞘町の「有賀百貨店」を買収して移転し、さらに売り上げを伸ばしていきます。
そして昭和三十九年(1964)には、旧高崎警察署のあった連雀町の大敷地に、本格的な百貨店「藤五デパート」を誕生させます。
「藤五デパート」は地下1階、地上5階で屋上には遊園地を設けて集客力を増し、年商100億円を突破する勢いでした。
その後、昭和四十四年(1969)「伊勢丹」と資本提携し、昭和四十八年(1973)には「藤五伊勢丹」と改称することになります。
昭和五十四年(1979)貞一が六十七歳で他界した後、昭和五十七年(1982)「高崎伊勢丹」となって「藤五」の名が消え、昭和六十年(1985)にはついに店は閉じられてしまいました。
ここに、ある方から頂いた一枚の風呂敷があります。
5本の藤の房が描かれ、「高崎 藤五」と染め抜きがあります。
昭和の高崎を駆け抜けた立志伝中の人物、野口貞一氏を偲び、私の宝物にしたいと思います。
野口貞一氏のことを、もっと知りたいと思われた方は、ぜひ、図書館で吉野五郎氏著「商人物語」をお読みください。
「約束・励行」を経営信条とした、野口貞一氏の人となりがよく分かる一冊です。
また、かつての高崎商人の心意気も感じられると思います。
最後になりましたが、「藤五」と野口貞一氏の素晴らしい歴史を調べるきっかけを与えて下さったJKさん、そして雀の子さんに、心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。
【関連ブログ】
◇「“藤五”高崎百貨店百花繚乱にて候・・・・」(黄昏て“爺放談”)
「 | はじめまして。 |
藤五について調べていて、ここに辿り着きました。 | |
少々お知恵をお貸し下さい。 | |
藤五デパートは昭和39年に開業しましたが、 それ以前も様々な商品を扱うお店として営業していたと聞きます。 | |
そのお店がどんな形態で、いつから始まり、どのへんにあったか、ご存知ないでしょうか? | |
倒産してかなりの歳月が流れており、なかなか調べることができません。覚えていることがおありでしたら、どうぞお教え下さい。」 |
「藤五デパート」の前身については、他のことを調べている時にサラッと通過読みした覚えがあるのですが、確かなことが分からず、JKさんには少しお時間を頂くことに致しました。
図書館で調べると、いろいろな本に「藤五」や創立者の「野口貞一」氏のことが出てくるのですが、どれも概略で、JKさんのご要望を満足させる記述ではありませんでした。
そんな時思い出したのが、連雀町の語り部・雀の子さんのことです。
メールを差し上げると、早速素晴らしい情報が返ってきました。
昭和三十五年(1960)発行の、吉野五郎※氏著「商人物語」に、野口貞一氏と「藤五」のことが詳しく書いてある、とのことでした。
※ | 繊維問屋・国光(株)の創業者、高崎商工会議所副会頭の時に、(株)「藤五」の立ち上げに関わった。 |
では、その中に書かれている野口貞一氏と「藤五」について、かいつまんでご紹介します。
野口貞一は明治四十五年(1912)四月七日、野口定次郎・春子の次男として、東京花川戸に誕生。
八歳の時に父と母を続けて亡くし、父の出身地甘楽郡新屋村の伯父(父の実兄)・和三郎に預けられることととなります。
しかしその伯父も、田畑・土地の一切を知人の借金のかたに取られ、赤貧洗うが如しという悲惨な生活に陥り、毎日のヤケ酒がたたってついに命を落としてしまいます。
小学6年生にして天涯の孤児となった貞一は、隣町福島町の「塚本呉服店」に店員として住み込むことになりました。
これが、後に独立して「藤五」を創設する第一歩となった訳です。
幼い頃からの苦労と勉強熱心さが、貞一を「塚本呉服店」第一の働き手に成長させました。
昭和七年(1932)「塚本呉服店」は、高崎の鞘町に出張所を出すことになり、二十歳の貞一が責任者として采配を振るいましたが、運転資金が回らず、8年程で内整理のやむなきに至ってしまいます。
しかし、この時の商店経営や従業員を使うという経験は、貞一に大きな力をつけさせたようです。
太平洋戦争が始まると、貞一は「塚本呉服店」から横須賀の海軍工廠に徴用されます。
終戦になって、奥さんの実家のある前橋に住んでいましたが、高崎に戻って昭和二十一年(1946)に松本という人と服地店を協同経営します。
屋号は、松本の「松」と、野口の「野」をとって「松野屋」と名付けました。
「松野屋」は服地店といいつつも、戦後の物資不足のために、食料品、菓子、八百屋となんでも商ったようです。
貞一は5年間この「松野屋」で手腕を振るいますがこれに満足せず、独立するのに適当な場所を物色していたところ、卸業・正木屋商店の高橋社長の好意で、中紺屋町の角に店舗を借りることができました。
繊維小売店「藤五」の誕生です。
昭和二十六年(1951)[昭和二十五年説もある。]、貞一四十歳の時です。
因みに、「藤五」という屋号は、野口家の先祖が東京花川戸で回漕問屋を営んでおり、藤屋五郎次という名から「藤五」という屋号を使っていたので、これを踏襲したのだそうです。
売場面積15坪弱の「藤五」でしたが、貞一の才覚で、開業第1期7ヵ月間で6千万円の売り上げ、4年後には年間1億5千万円を記録しています。
高崎の同業小売店100店を追い抜き、堂々第一位の売り上げとなった「藤五」は、売場面積の限界に達したため、昭和三十二年(1957)鞘町の「有賀百貨店」を買収して移転し、さらに売り上げを伸ばしていきます。
そして昭和三十九年(1964)には、旧高崎警察署のあった連雀町の大敷地に、本格的な百貨店「藤五デパート」を誕生させます。
「藤五デパート」は地下1階、地上5階で屋上には遊園地を設けて集客力を増し、年商100億円を突破する勢いでした。
その後、昭和四十四年(1969)「伊勢丹」と資本提携し、昭和四十八年(1973)には「藤五伊勢丹」と改称することになります。
昭和五十四年(1979)貞一が六十七歳で他界した後、昭和五十七年(1982)「高崎伊勢丹」となって「藤五」の名が消え、昭和六十年(1985)にはついに店は閉じられてしまいました。
ここに、ある方から頂いた一枚の風呂敷があります。
5本の藤の房が描かれ、「高崎 藤五」と染め抜きがあります。
昭和の高崎を駆け抜けた立志伝中の人物、野口貞一氏を偲び、私の宝物にしたいと思います。
野口貞一氏のことを、もっと知りたいと思われた方は、ぜひ、図書館で吉野五郎氏著「商人物語」をお読みください。
「約束・励行」を経営信条とした、野口貞一氏の人となりがよく分かる一冊です。
また、かつての高崎商人の心意気も感じられると思います。
最後になりましたが、「藤五」と野口貞一氏の素晴らしい歴史を調べるきっかけを与えて下さったJKさん、そして雀の子さんに、心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。
【関連ブログ】
◇「“藤五”高崎百貨店百花繚乱にて候・・・・」(黄昏て“爺放談”)