請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する
「威徳寺」の山号「慈応山」が「成田山」になった経緯は、「更正高崎旧事記」に書かれています。
「 | 同駅本町平民後藤保五郎(旅館堺屋)ナル者、発起シ、下総国海上郡成田山新勝寺ヨリ、不動尊及二童子ノ古像ヲ請待シ、威徳寺ヘ成田山出張(でばり)ヲ設置セン事ヲ出願セシニ、是亦許可アリテ、乃チ同寺旧廟ヲ用テ不動尊ノ堂宇トセリ。」 |
「成田山出張」を設置した後藤保五郎という人は、「威徳寺」参道入り口で「堺屋」という旅館を営んでいました。
保五郎さんが何故そうしたのかまでは書かれていませんが、そもそも「威徳寺」は元藩主の祈願所で、檀徒衆がいる訳でもなく、寺を維持していくのは大変なはずです。
そこで名のある「成田山」の分院を勧請すれば参詣する人々で賑わい、檀徒も増えるのではないかと考えたのでしょう。
そんな保五郎さんの願いが叶い、明治十年(1877)五月、成田山不動尊の入仏が成りました。
しかし、そうすぐに効果が現れた訳でもなかったようです。
境内に建つ「中興開山 阿闍梨宥海之碑」にこう刻まれています。
「 | 抑(そも)當山ハ當市本町初代後藤保五郎成田山不動明王ヲ信仰スルコト深ク 同九年髙﨑城三ノ丸ヨリ城主ノ霊廟ヲ現地ニ移シ 下総ヨリ本尊ヲ勸請シ成田山出張所ヲ創設セシニ基ス |
然レトモ業未タ草創ニ属シ 基礎確立セス前途ノ事業蓋シ尚尠(すくな)シトセス」 |
そこで、阿闍梨宥海(あじゃり・ゆうかい)が中興の祖として活躍することになるのです。
まずは宥海和尚の経歴です。
「 | 成田山光徳寺中興開山阿闍梨宥海和尚ハ 千葉縣印旛郡吉岡村松本儀左衛門ノ三男 安政四年四月八日生ル |
十歳ニシテ千葉郡平山邨(むら)東光院宥正和尚ノ室ニ入リ 慶應三秊(年)得度ス 師ニ随テ四度加行ヲ修シテ 盛範阿闍梨ヨリ傳法灌頂ヲ受ケ 明治七秊(年)師跡東光院ヲ繼ク 同年髙照阿闍梨ヨリ三寶院流ノ秘奥ヲ傳フ | |
同九秊(年)照輪教正ノ徳ヲ慕ヒ成田山ニ到リ 薫陶ニ浴シ大ニ其ノ材ヲ識ラレ 選ハレテ同十七年當山ニ留錫ヲ命セラル | |
阿闍梨ハ 時ノ本山法主照鳳大僧正ヨリ㝡モ(最も)信任ヲ蒙リ 主任トシテ執行ヲ委任セラル」 |
さてそこから、様々な改革が始まります。
「 | 先ツ(まず)永代日護摩講ヲ組織シ 漸次ニ教線ヲ擴張シ境内地購入整理 大門道路買入修築 伽藍改増築ヲ行フ |
同四十五秊(年)遂ニ埼玉縣ヨリ光徳寺ノ寺名ヲ移轉シ 爰ニ始メテ寺院公稱ノ宿志ヲ遂ク | |
次ニ奉賛會ヲ組織シ 會員千餘ヲ獲教勢愈盛ナリ」 |
さらに、埼玉にあった「光徳寺」という寺名を、明治四十五年(大正元年/1912)に移転したとあります。
実は「威徳寺」は、明治四十年(1907)すでに富岡の「施無畏寺」(せむいじ)に合併され廃寺となっていたのです。
こうして「成田山威徳寺」は「成田山光徳寺」となった訳ですが、宥海和尚の改革はまだ続きます。
「 | 昭和六年多野郡ヨリ阿弥陀堂ヲ移シ 髙嵜十職千餘名ノ奉スル聖徳太子ヲ本尊ニ加ヘ 太子ノ帝國學藝創設ノ洪徳ヲ唱讃ス」 |
その「太子堂」がこれです。
こんな経緯で、「成田山光徳寺」は「月の下旬の七八日 老若男女群集する」までになりました。
昭和八年(1933)、宥海和尚の喜寿と在職五十周年を記念し、信徒たちによって「中興開山 阿闍梨宥海之碑」が建てられました。
その四年後の昭和十二年(1937)、宥海和尚は八十二歳で遷化されました。
合掌。