請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する
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現在の「請地(うけち)町」です。
もとは「赤坂村」の「前請地」という字(あざ)でしたが、明治三十五年(1907)に「請地町」になりました。
「請地」という地名の由来はあまり定かではないようですが、田島桂男氏著「高崎の地名」には、こう書いてあります。
「 | 『請地』は『請田』と同じ意味と考えられる。 これは、小作を永く勤めあげた人に対して、地主がその労に報いるために、あがりのよい田を贈ることがあり、これを『請田』といった。 |
もう一つ、大地主から、誰かがある地域の田を引き受けてきて、働き手を手配し、田植えから収穫までをすることも『請田』といった。 | |
したがって、地主から誰かがもらった田地、あるいは、誰かが耕作、作物の栽培、収穫を請け負った土地のことと考えられる。」 |
「高崎の散歩道 第十二集上」では、金井恒好氏が少し違う説を唱えています。
「 | これは、中世の荘園時代に発生した地名ではなかろうか。 |
荘園の荘官・地頭・名主(みょうしゅ)などが、荘園領主(荘園の持ち主で、本所・領家ともいう)と契約して、毎年一定の年貢を納めることを請け負い、その代わりに、荘園の支配や管理一切の権利を任される制度や、その権利を持つ者を請所(うけどころ、うけしょ)といった。 この仕組みにとって、請所、つまり荘官・地頭・名主などに年貢を取り立てられて支配された土地を、『請地』といった。(略) |
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請地の権力を強めた者は、鎌倉中期以後は地頭が、室町になると守護が、室町後期になって百姓の力が増大すると名主や百姓が請所の権利を握るようになった。 これを地下請(じげうけ)、百姓請、村請などといい、土地によっては、農民の手で村を管理する力が強まった。(略) |
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推測であるが、もとは赤坂荘全体が請所の支配下(請地)にあったが、荘園時代が衰え、請所制度がくずれていく過程で、ここだけ遅くまで請所の支配が残っていたのか、あるいは、百姓請が根強く残っていたのか。 他の土地は、それぞれ特色ある地名が育って行っても、ここだけは昔の制度が地名として名付けられて残ったのかも知れない。」 |
字「前請地」の南に接していたのが字「町浦」ですが、やはり明治三十五年(1907)に「成田町」になりました。
「町浦」は「町裏」で、本町の裏っ側だからですね。
その「町浦」にある「成田山」が町名の由来となりました。
現在の寺名は「光徳寺」ですが、上の地図では「威徳寺」となっています。
「威徳寺」は高崎城内にあった、大河内家の祈願寺です。
その「威徳寺」の由緒と「町浦」に移された経緯が、「更正高崎旧事記 五巻」に載っています。
「 | 服部権云、威徳寺ハ旧城内三丸坤(ひつじさる:西南)方ニアリテ、旧領主大河内家累世ノ木主(もくしゅ:霊牌)ヲ安置シ、且輝貞朝臣ノ世ニ当リ、五代将軍常憲院殿ノ特恩ヲ以テ、報恩ノ為メ該寺ニ一(ひとつ)ノ廟宇ヲ建築セラレ、霊牌ヲ安置シ奉リ、頗ル輪奐(りんかん:広大で壮麗)ノ美ヲ尽シ、尊重セラルゝ事啻(ただ)ナラズ。 |
然ルニ王政復古廃藩置県ノ時ニ際シ、旧城郭一円、陸軍省所轄トナルニ拠リ、其時ノ住持手塚良覚、明治九年(1876)六月中、高崎駅接壌北ノ方、赤坂村第三十六番地梶山氏持地ヲ卜(ぼく:吉凶判断)シ、耕地ヲ変換シテ清潔ノ地トナシ、爰(ここ)ニ移転セン事ヲ出願セシニ、速ニ許可アリタリ。」 |
いま「威徳寺の内陣」が高崎市指定重要文化財となって、境内に残っています。
最近、近くまで行って見ることができるようになりました。
「威徳寺」の山号は「慈応山」だったんですね。
この後「慈応山」が「成田山」に、「威徳寺」が「光徳寺」に変わっていく訳ですが、ちょっと長くなりそうなので、次回へ送ることに致しましょう。