「郷蔵道」を北へ進むと、倉賀野城主・金井淡路守が城の鬼門除けに建てたという「養報寺」がある。
さすが城主建立というだけあって、山号は「倉賀野山」、そして、その山門は実に立派な造りである。
天正4年(1576)に造られ、昭和54年(1979)に修復された。
山門の扉彫刻 山門の天井絵
その立派な山門を潜ると、右手に柵に囲まれた石碑がある。
これは、高崎輩出の俳人・村上鬼城の句碑第一号である。
倉賀野の俳句同好者たちは、鬼城をこの寺に招いては、句会を開いていたという。
刻まれている句は、
「小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ」
耳の病のため、音の聞こえなくなった鬼城の思いが伝わる一句である。
句碑の隣にある松は、二代目だそうだ。
一代目は、地面近く横に広く枝を張る大木で、まるで根が無いように見えたため「根なし松」と呼ばれたという。
二代目の襲名披露は、いつ頃になるのだろう。
鬼城句碑の反対側に、物置のような建物がある。
中を見ると、所々崩れた石仏が5体並んでいる。
鎌倉時代末期のもので、今は廃寺となった「長賀寺」を、明治初期「養報寺」に合併した時、移されたものらしい。
できれば、もう少し趣のある覆い屋に安置して差し上げたいものである。
本堂の左奥にも、面白いものがある。
ちょっと見には、最近造ったばかりの池とポンプ小屋に見えるが、小屋には篆刻文字で「弁財天」と書かれた看板がかかっている。
池には、大きな緋鯉と赤ちゃん鯉が、沢山泳いでいた。
さて、「養報寺」にはまだ面白い伝説があるのだが、そのお話は次回ということに。
さすが城主建立というだけあって、山号は「倉賀野山」、そして、その山門は実に立派な造りである。
天正4年(1576)に造られ、昭和54年(1979)に修復された。
山門の扉彫刻 山門の天井絵
その立派な山門を潜ると、右手に柵に囲まれた石碑がある。
これは、高崎輩出の俳人・村上鬼城の句碑第一号である。
倉賀野の俳句同好者たちは、鬼城をこの寺に招いては、句会を開いていたという。
刻まれている句は、
「小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ」
耳の病のため、音の聞こえなくなった鬼城の思いが伝わる一句である。
句碑の隣にある松は、二代目だそうだ。
一代目は、地面近く横に広く枝を張る大木で、まるで根が無いように見えたため「根なし松」と呼ばれたという。
二代目の襲名披露は、いつ頃になるのだろう。
鬼城句碑の反対側に、物置のような建物がある。
中を見ると、所々崩れた石仏が5体並んでいる。
鎌倉時代末期のもので、今は廃寺となった「長賀寺」を、明治初期「養報寺」に合併した時、移されたものらしい。
できれば、もう少し趣のある覆い屋に安置して差し上げたいものである。
本堂の左奥にも、面白いものがある。
ちょっと見には、最近造ったばかりの池とポンプ小屋に見えるが、小屋には篆刻文字で「弁財天」と書かれた看板がかかっている。
池には、大きな緋鯉と赤ちゃん鯉が、沢山泳いでいた。
さて、「養報寺」にはまだ面白い伝説があるのだが、そのお話は次回ということに。
【養報寺】