今日は、史跡看板には書かれていないけれども、「高崎小学校」の誕生に大きな貢献をした、市川左近という人のお話です。
市川左近は羽前国東置賜郡一本松柳村(現山形県米沢)の神官の家に生まれ、一旦は神職を継ぎますが、学問を志して江戸に出て、二十数年湯島聖堂で修学に励んだのち漢学者になったという、博学多識の人だったようです。
文久二年(1862)五十歳の時、高崎藩士・飯野金八の招きによって高崎に来て、田町に漢学塾を開いたところ多くの入門者を得たといいます。
その評判が、学問好きな高崎藩主・大河内輝聲の耳に入ったのでしょう、再三にわたって輝聲から招請があったといいます。
初めなかなか応じなかった左近も、遂に断り切れず、藩籍に入って藩士らの指導にあたることになりました。
その時、輝聲が左近に塾を開かせたのが鞘町で、後にここが高崎で最初の小学校「鞘町小学校」となる訳です。
「鞘町小学校」がどこにあったのかよく分からないのですが、昭和四十九年(1974)発行の「高崎市立中央小学校 百年のあゆみ」には、こんな写真と説明が載っています。
現在は、こんな風景のところです。
輝聲は左近に開かせた塾に「積小館」という名を付け、扁額まで書いて与えたのだそうです。
「積小」とは、「小さなことを積み上げる」という意味ですが、もしかすると二宮尊徳の遺した「積小為大」という言葉からとったのかも知れません。
まさに、左近はその「積小」を地でいった人で、いろんなエピソードが残っています。
「高崎市教育史 人物編」からご紹介しましょう。
という異形な風貌で、いかにも頑固そうです。
ところが、仕事は人の数倍こなすという多忙ぶりで、
そういう生活ぶりですから、数千金の蓄えがあったといいます。
そんな「けちんぼう先生」が、明治六年(1873)の「鞘町小学校」と「烏川学校」開設に際し、一千円とも二千円とも言われる大金をぽんと寄付したのだそうです。
市内の豪商たちは口実を設けて出資を避けようとしていましたが、「けちんぼう先生」の寄付を知って、寄付をするようになったので、立派に学校が設立されたという話が伝わっています。
史跡看板には、「町民から募った約四千五百円の寄付により建てられた」とありますが、これはいつの時点のことを言っているのでしょうか。
「バルコニーが付いたモダンな建物」とも書かれてますので、明治二十八年(1895)の「コの字型校舎」のことを言っているのかも知れませんが、どうも話が錯綜しているように思えます。
「高崎市教育史 上巻」によると、明治十年(1877)に建てられた「高崎小学校」の建築費は総額4,472円余、その財源は有志者寄付3,100円、残りは駅内区入費(町税?)であったとあります。
前回も書きましたが、「高崎小学校」は開設後2度の校舎増改築を行っています。
明治二十二年(1889)の「高崎尋常小学校」となる時の校舎建設費は、4,500円とあります。(高崎市立高崎中央小学校 百年のあゆみ)
これが、寄付金で賄われたかどうかは書かれていないので分かりませんが、高崎の財政状態が裕福であったとは思えませんので、おそらく寄付金が占める割合は大きかったと推測されますが、全額寄付によるとも思えません。
「コの字型校舎」となった明治二十八年(1895)の増築では、建築費3,125円86銭4厘。
この時の有志者寄附金1,834円30銭、町費1,291円56銭4厘となっています。(高崎市教育史 上巻)
ま、ともあれ、いずれにおいても高崎の人々が造り育てていった小学校であったことには違いありません。
そのきっかけをつくったのが、「けちんぼう先生」市川左近だったということを忘れてはいけないでしょう。
市川左近は、「高崎尋常小学校」校舎建設の翌年、明治二十三年(1890)に七十八歳でこの世を去りました。
できれば、立派な「コの字型校舎」で学ぶ子どもたちの姿を見てほしかったものです。
いま、「龍広寺」に、静かに眠っています。
一度、お参りして差し上げてください。
市川左近は羽前国東置賜郡一本松柳村(現山形県米沢)の神官の家に生まれ、一旦は神職を継ぎますが、学問を志して江戸に出て、二十数年湯島聖堂で修学に励んだのち漢学者になったという、博学多識の人だったようです。
文久二年(1862)五十歳の時、高崎藩士・飯野金八の招きによって高崎に来て、田町に漢学塾を開いたところ多くの入門者を得たといいます。
その評判が、学問好きな高崎藩主・大河内輝聲の耳に入ったのでしょう、再三にわたって輝聲から招請があったといいます。
初めなかなか応じなかった左近も、遂に断り切れず、藩籍に入って藩士らの指導にあたることになりました。
その時、輝聲が左近に塾を開かせたのが鞘町で、後にここが高崎で最初の小学校「鞘町小学校」となる訳です。
「鞘町小学校」がどこにあったのかよく分からないのですが、昭和四十九年(1974)発行の「高崎市立中央小学校 百年のあゆみ」には、こんな写真と説明が載っています。
現在は、こんな風景のところです。
輝聲は左近に開かせた塾に「積小館」という名を付け、扁額まで書いて与えたのだそうです。
「積小」とは、「小さなことを積み上げる」という意味ですが、もしかすると二宮尊徳の遺した「積小為大」という言葉からとったのかも知れません。
まさに、左近はその「積小」を地でいった人で、いろんなエピソードが残っています。
「高崎市教育史 人物編」からご紹介しましょう。
「 | 左近の風体はずんぐりで肥満型、その上猫背で斜視であった。頭は髪を前で結い、後頭部は剃り落として、自ら空気抜きと称していた。 |
日常の生活は質素、倹約を旨とし、他人の目からは『けちんぼう先生』そのものと見られていた。 | |
節約の様子は、衣服を損じないためのあんどん袴。下駄は減らないように固く節の多いもの、しかも横に穴を余分にあけて鼻緒が切れても短くして使う。 | |
入浴は年間を通して水。 紙は、受け取った書状などの余白を切り取って、これに細字で書きつけていた。」 |
ところが、仕事は人の数倍こなすという多忙ぶりで、
「 | 早朝は家老の長坂邸にゆきその子弟を教えて朝食をとり、帰宅後昼まで塾生を指導、直ちに津田邸(重臣宅)へ伺い昼食をとってその子弟を教え、夕食頃は商家の子弟を教えるというような訳で、家庭で食事をとる暇もなかったという。」 |
(高崎市教育史 上巻)
そういう生活ぶりですから、数千金の蓄えがあったといいます。
そんな「けちんぼう先生」が、明治六年(1873)の「鞘町小学校」と「烏川学校」開設に際し、一千円とも二千円とも言われる大金をぽんと寄付したのだそうです。
市内の豪商たちは口実を設けて出資を避けようとしていましたが、「けちんぼう先生」の寄付を知って、寄付をするようになったので、立派に学校が設立されたという話が伝わっています。
史跡看板には、「町民から募った約四千五百円の寄付により建てられた」とありますが、これはいつの時点のことを言っているのでしょうか。
「バルコニーが付いたモダンな建物」とも書かれてますので、明治二十八年(1895)の「コの字型校舎」のことを言っているのかも知れませんが、どうも話が錯綜しているように思えます。
「高崎市教育史 上巻」によると、明治十年(1877)に建てられた「高崎小学校」の建築費は総額4,472円余、その財源は有志者寄付3,100円、残りは駅内区入費(町税?)であったとあります。
前回も書きましたが、「高崎小学校」は開設後2度の校舎増改築を行っています。
明治二十二年(1889)の「高崎尋常小学校」となる時の校舎建設費は、4,500円とあります。(高崎市立高崎中央小学校 百年のあゆみ)
これが、寄付金で賄われたかどうかは書かれていないので分かりませんが、高崎の財政状態が裕福であったとは思えませんので、おそらく寄付金が占める割合は大きかったと推測されますが、全額寄付によるとも思えません。
「コの字型校舎」となった明治二十八年(1895)の増築では、建築費3,125円86銭4厘。
この時の有志者寄附金1,834円30銭、町費1,291円56銭4厘となっています。(高崎市教育史 上巻)
ま、ともあれ、いずれにおいても高崎の人々が造り育てていった小学校であったことには違いありません。
そのきっかけをつくったのが、「けちんぼう先生」市川左近だったということを忘れてはいけないでしょう。

できれば、立派な「コの字型校舎」で学ぶ子どもたちの姿を見てほしかったものです。
いま、「龍広寺」に、静かに眠っています。
一度、お参りして差し上げてください。
【高崎小学校跡】
【市川左近の墓】