昭和二十七年(1952)四月一日から開催された、「新日本高崎こども博覧会」。
開会前日に発行された、高崎市民新聞の記事です。
近ごろの新聞の紋切り型な文章とは違い、なかなか文学的表現に富んでいて、まるで実況中継のようです。
実況中継といえば、実は、博覧会の様子は映画化されているんです。
撮影は桐生市在住の木村健司氏が担当、桜井伊兵衛氏宅の土蔵の中で、映画製作に通じた渋谷保雄氏と高崎市職員で編集したそうです。
その後しばらくフィルムは行方が分からなくなっていたそうですが、37年ぶりにということですから昭和六十三年(1988)でしょうか、蔵の中から発見されたということです。
ナレーションは当時高崎市立図書館長だった田島武夫氏が担当したらしいのですが、残念ながらその音声テープはいまだに発見されていないので、無声映画の状態です。
その映画の一部が、平成二年(1990)に高崎市教育委員会が作った「観音山のむかしと今」というビデオに使われています。
このビデオは、田村文江さんという方のナレーション入りです。
会場入り口となった清水寺石段下には、大きな駐車場が必要となりましたが、参道入口にあった福田邸の敷地があてられました。
以前、旧福田邸の中を拝見させて頂いた時、「こんなのがあるんですよ。」と見せてもらったものがあります。
底に「九谷」と朱印が押されている立派な子ども用ご飯茶碗が、細い鉋屑をパッキンにした木箱の中にたくさん入っていました。
いくつか頂戴して、今、わが家のお宝になっています。
さて、映画の中で「大成功でした。」と言ってる「子ども博覧会」、実際はどうだったのでしょうか。
実施後に発行された報告書が残っているので、それを見てみましょう。
入場料収入は、予算よりも約500万円の黒字、そのためか県からの補助金350万円は貰わなかったようですが、それでもトータルで約200万円の黒字ですから、やはり大成功と言ってよいでしょう。
ただ、課題や問題点も浮き彫りになりました。
博覧会協賛会が、正直に総括しています。
累計で50万人もの人を集めたこれだけの大イベントでも、市の商店街には直接の利がなかったというのです。
現在も、高崎の町なかでは、それはそれは様々なイベントが催され、沢山の人が集まっています。
それらによる「商店街の直接な利」は、はたして、どんなことになっているのか、気になるところではあります。
開会前日に発行された、高崎市民新聞の記事です。
近ごろの新聞の紋切り型な文章とは違い、なかなか文学的表現に富んでいて、まるで実況中継のようです。
実況中継といえば、実は、博覧会の様子は映画化されているんです。
撮影は桐生市在住の木村健司氏が担当、桜井伊兵衛氏宅の土蔵の中で、映画製作に通じた渋谷保雄氏と高崎市職員で編集したそうです。
その後しばらくフィルムは行方が分からなくなっていたそうですが、37年ぶりにということですから昭和六十三年(1988)でしょうか、蔵の中から発見されたということです。
ナレーションは当時高崎市立図書館長だった田島武夫氏が担当したらしいのですが、残念ながらその音声テープはいまだに発見されていないので、無声映画の状態です。
その映画の一部が、平成二年(1990)に高崎市教育委員会が作った「観音山のむかしと今」というビデオに使われています。
このビデオは、田村文江さんという方のナレーション入りです。
会場入り口となった清水寺石段下には、大きな駐車場が必要となりましたが、参道入口にあった福田邸の敷地があてられました。
以前、旧福田邸の中を拝見させて頂いた時、「こんなのがあるんですよ。」と見せてもらったものがあります。
底に「九谷」と朱印が押されている立派な子ども用ご飯茶碗が、細い鉋屑をパッキンにした木箱の中にたくさん入っていました。
いくつか頂戴して、今、わが家のお宝になっています。
さて、映画の中で「大成功でした。」と言ってる「子ども博覧会」、実際はどうだったのでしょうか。
実施後に発行された報告書が残っているので、それを見てみましょう。
入場料収入は、予算よりも約500万円の黒字、そのためか県からの補助金350万円は貰わなかったようですが、それでもトータルで約200万円の黒字ですから、やはり大成功と言ってよいでしょう。
ただ、課題や問題点も浮き彫りになりました。
博覧会協賛会が、正直に総括しています。
「 | 今後博覽會の施設は更に恒久的に觀音山一帶の觀光施設として整備され、將來の開發が期待されるが、高崎線電化に伴う観光立地としての高崎の施設整備、宣傳には大いに努力する要があろう。 |
今回の博覽會が入場者五十万を突破する盛況ではあったが、本市の商店街にとっては、直接の利は見られなかった。 | |
協賛會としても、この点來觀者の市街誘引を目標に務めはしたが思はしくなかった。 | |
大体博覽會場の賣店も期待に反し、会期中に閉店の處もあり、成績の惡いことは、ひいて賣品を下ろした向の回収難となって影響している。 | |
然し、この博覽會によって高崎の觀光、商業、物産が汎く宣傳、紹介されたことは大きなもので、又市を舉げての協力協賛の体制は力強いものであった。 | |
この体制をさらに強めて、地の利をいかし、高崎市發展を推進して、今回こども博が眞に本市の劃期的な事業となったと云う様に念願してやまない次第である。」 |
累計で50万人もの人を集めたこれだけの大イベントでも、市の商店街には直接の利がなかったというのです。
現在も、高崎の町なかでは、それはそれは様々なイベントが催され、沢山の人が集まっています。
それらによる「商店街の直接な利」は、はたして、どんなことになっているのか、気になるところではあります。