
嘉多町通りを東から西に向かって見ている。
真っ直ぐ行った突当りが「高崎神社」だ。
あの頃、ゑびす講というと、この通りの左側(覚法寺側)には、ズラーっと露店が並んだ。
露店の灯りは今のような電灯ではなく、カーバイトのガスを燃やすランタンだった。
シューっという音と、独特の臭いと熱さは、今でも思い出せる。
夜が明けると、カーバイトの使い残しが道に捨ててあったりする。
拾って水たまりに放り込むと、ブクブクと白い泡を出して、小さくなっていく。
触ると、熱かったっけなぁ。
写真に写っているおそば屋さん「中よし」さんには、貧乏のどん底だった時代に助けてもらったことがある。
私の家は一応店を構えていたが、客足はさっぱりだった。
何日も客が来ないので、米びつも財布も空っぽだ。
その日も客は来ず、夜になって当時5歳の私は、「母ちゃん、おなかが空いたよ~!」と泣きべそをかく。
母親は見るに忍びず、「中よし」さんへ行って、ラーメンを3つ届けてもらう。
空いた丼を取りに来るまでに、客が一人でも来れば金が払えると考えてのことだった。
ところが、客が来ない内に丼を取りに来てしまった。
母は「すみません。まだ空いてなくって。」と嘘をつく。
そんな訳はない。もう、2時間も経っているのだ。
でも「中よし」さんはそれを承知で、「はい、わかりました。」と言って帰ってくれた。
確か、もう一度来た時も言い訳をして引き取ってもらったと思う。
夜が明けた。
もう、いくらなんでも丼が空いてないとは言えない。
だが、神様というのはいるもので、やっと一人の客が来て、3杯のラーメン代(1杯30円位?)を払うことができた。
母親は、この話をするたびに、「中よし」さんの人情の厚さに感謝して涙を流していた。
その母も他界して、もう20年。
一度、その時のお礼を言いに行かなくてはバチがあたるな。
「中よし」さんの隣にある、「綿貫病院」の院長先生にも助けられた。
母が真夜中にぎっくり腰になり、七転八倒でもがき苦しんだことがある。
「綿貫病院」に駆け込んで往診を頼むと、院長先生が一人で来てくれた。
頭の毛は寝癖そのまま、眠たそうな眼をしていたので、子どもの目にも先生が就寝中だったことがすぐわかった。
そういうお医者さんがいた時代だった。
貧しかったけど、助けられて今がある。
感謝、感謝。