2023年05月06日

高崎唱歌散歩-29番 ♪九蔵町すぎ田町とて・・・

九蔵町すぎ田町とて
ここぞ名高き上州絹
五十(ごとお)の市の売買は
数万(すまん)の高に上るとか

「上州絹」については「新編高崎市史 通史編3」に、こう書かれています。
市域の村々で『女稼ぎ』として生産されていた絹は生絹(きぎぬ)と呼ばれるものが多かったが、玉糸を原料とする太織(ふとり)や真綿(まわた)もあわせて生産されていたのである。
これらの生絹や太織は、高崎や藤岡など最寄りの絹市で売買していたが、当時、江戸や京都の都市問屋商人の間では桐生を中心に織られていた綾織(あやおり)絹類を桐生綾、あるいは上州綾と呼んでいたのに対し、高崎市域を含む西上州の生絹を上州絹と呼んでいた。」

高崎藩は城下政策として、旅籠は本町と新(あら)町、紙は連雀町、そして絹・綿は田町というぐあいに、町ごとにできる商いを制限していました。
田町の「市」については、「高崎志」にこう書いてあります。
毎月五十ノ日市アリ、此市ニ限リテ絹綿売買アリ、元禄三年(1690)庚午八月ヨリ、他町ニテ売買スルヲ領主ヨリ禁セラルゝガ故也。」

市が開かれる「五十の日」とは、「五」「十」の付く日ということで、月に六回あるので「六斎市」とも言われます。
六回と言っても丁目毎には二回づつで、一丁目が十日と二十五日、二丁目が十五日と三十日、三丁目が五日と二十日に決められていたそうです。

市の立つ日には、江戸やその他の地から集まる仲買人が、常設店舗の前に仮設店舗(露店)を開き、近郷の農民が持ち込む生絹や太織を、口銭を取って売りさばくわけです。

その間、農民たちは町なかを見物し、絹が売れたお金で買物もしますから、”お江戸見たけりゃ高崎田町”の賑わいとなる道理です。

田町の絹市は明治になっても盛んに行われ、明治二十七年(1894)には通りから一歩入った所に、常設の「絹市場」が新設されます。



こうして高崎の商業を牽引していた「絹市場」ですが、昭和十七年(1942)に閉鎖されてしまいます。
戦時統制で全ての物資が軍事優先とされたからです。

戦後になって、「絹市場」跡地には「日本裏絹組合联合会」「群馬県絹人絹織物調整組合上州支部」が置かれ、その奥にあった「高崎絹株式会社」では、絹の卸が行われていました。


その「高崎絹株式会社」も昭和四十二年(1967)に問屋町へ移転して、「絹市場」跡地は駐車場になりました。
それでも十三年前は、まだおぼろげに面影を残していたのですが・・・。
   ◇すもの食堂から絹市場へ

「すもの食堂」も、「珍竹林画廊」も、「高井京染店」もなくなってしまいましたが、その代わりにこんな素敵な「田町絹市場」ができました。


この広場を使って月の何日か、「クラフト市」でもやったらどうでしょう。
かつての「六斎市」のような賑わいが取り戻せたらいいのにな、と思います。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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