2023年04月29日

高崎唱歌散歩-28番 ♪末広町なる新道は・・・

末広町なる新道は
前橋市へと出づる道
左に建てる建物は
県立高崎女学校

「末広町」という町ができたのは意外と遅く、明治三十五年(1902)です。
「新道」ができたのは、それよりずっと前の明治二十四年(1891)頃で、「前橋新道」と呼ばれました。


「新道」ということは「旧道」がある訳でして、「高崎の散歩道 第5集」を読んでみましょう。
明治初期までの前橋道は、貝沢・下日高・新保田中・箱田・小相木を経て利根川を渡り、実正(さねまさ)の関所から前橋へ入るのが近道であった。」

上の地図で言うと、「前橋新道」より一本東の、高砂町から前橋へ向かう通称「実政(さねまさ)街道」です。

続きを読んでみます。
明治五年(1872)、高崎から前橋に県庁が移転すると、県庁裏の利根川に舟を並べて板を渡した舟橋・曲輪橋が仮設され(現在の群馬大橋のすぐ上手)、前橋・高崎間の近回りコースとして、内藤分(ないとうぶん)村(現在の石倉)から古市・江田・日高・井野・貝沢経由の新道開発が始まった。
これの開通が明治七年(1874)ごろ、それまであった村道、野道をつないだ幅3m足らずのバラス道で、蛇行している部分もかなりあった。
すでにこの時、沿道村民はこの道を、前橋新道とか前橋復還(往還?)と呼んでいた(貝沢町井田義助氏蔵「明治十年貝沢村地誌」より)。」
ということで、明治七年には「前橋新道」と呼ばれる道ができてた訳ですが、貝沢からは「実政街道」を使いました。

この道が、「御幸(みゆき)新道」と呼ばれた時期もあります。
その後、明治九年(1876)に高崎安国寺に戻っていた県庁が再び前橋に移転し、さらに明治十一年(1878)、明治天皇行幸という大事に先駆けて再び新道整備が行われ(略)、行幸を記念して、この道は『御幸(みゆき)新道』と名付けられたが、その呼び名も一時的なもので、その後自然に忘れ去られ前橋新道という呼び名の方が長く親しまれて現在まで残っているというわけである。」

その十年後、「前橋新道」は新しいルートに変わります。
しかし、この前橋新道の高崎側、本町三丁目から普門寺跡を通って末広町、飯塚(飯玉)の踏切をわたり、塚沢小学校裏のホザナ料理学校の辺までは、当時まだ開かれていなかった。
この区間の新道が開通するのは、明治二十一年(1888)から同二十四年(1891)にかけて行った、高崎前橋間の道路改修整備後のことである。」

こうして、「前橋新道」全線が開通した訳です。
この「前橋新道」は大正九年(1920)「国道九号線」となり、後に「国道17号線」となっていきます。

「県立高崎女学校」は明治三十二年(1899)の開校なんですが、その時まだ校舎ができておらず、一年間「春靄(しゅんあい)館」を仮校舎として使用していました。

新校舎の建築はその年の夏ごろから始まったそうですが、敷地は水田地帯だったので、すぐ北の土を掘り取って土盛りすることから始めたと言います。
そして、翌三十三年(1900)四月、本校舎が竣工します。
土盛り用の土を掘り取った所は、水が溜まって池になりました。



校庭の樹々は、明治三十七年(1904)に日露戦争を記念して職員・生徒一同が植樹した200本のシイノキと、明治四十年(1907)に卒業生の一人が寄贈した40本のクスノキだそうです。


つい最近、「高等女学校」跡である高崎中央公民館の庭に、こんな「名所旧跡案内板」が建てられました。



「案内板」は、もうひとつあります。



よく見ると、たしかにクスノキには補修した跡が残っています。


高崎が初めて空襲を受けたのは、昭和二十年(1945)七月十日でした。
以降、終戦当日となる八月十五日の深夜まで、たびたび空襲を受けることになります。



「高等女学校」が爆撃を受けたのは、八月五日の夜でした。

風船爆弾をつくるために運び込まれていた火薬が、爆撃により誘爆を起したといいます。
  ◇風船爆弾と高崎高等女学校(1)
  ◇風船爆弾と高崎高等女学校(2)

クスノキは、戦前・戦中・戦後を見ていたのですね。
そして今、「新しい戦前」という囁きを聞きながら、世の行く末をじっと見つめているようです。

「新しい戦中」が来ないことを祈らずにはいられません。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年04月22日

詐欺に遭ったみたい・・・

3年前、近くの市民サービスセンターで、あるカードを購入しました。
定価4,750円なんですが、3,750円で買えますと。
しかも、5,800円分使えるんですと。
使用期限はありませんと。

ところがある日突然、このカードはもうすぐ使えなくなると言われました。
使い切らなかったカードは払い戻しができると言うんですが、前橋の本社営業所でしかできないといいます。
しかも、4月1日以降でないと手数料を取るってんです。

しかたなく、4月になってから、遠路はるばる前橋まで行きました。
ところが、びっくり!
カードの残金は3,750円あったのに、返金はなんと2,140円だと言うじゃありませんか。
おかしいじゃないかと文句を言うと、こういうルールですからの一点張り。

これって、詐欺じゃないですか?

あ、そもそも何のカードなんだい?って話ですよね。
これです。


それが、こうなるってんで。


「高詐欺市」に騙されました。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年04月15日

高崎唱歌散歩-番外編 山田町の昇明社

明治三十年(1897)の「髙﨑街全圖」を見ると、山田町「昇明社」というのがあります。


どんな会社なんでしょう。
「新編高崎市史通史編4」の索引で「昇明社」を引くと、こんな表の中にありました。

明治二十三年(1890)にできた製糸会社で、須藤市之助という人が代表になっています。
しかし、表以外の記事は何もありません。

いろいろ調べていると、故高階勇輔先生が「商工たかさき」に連載していた「高崎産業経済史」に、少し記載がありました。
旭社は明治二十年現在で資本金額で第一位を占め、翌年、生産が軌道に乗って営業高一万円を超え、他社を圧倒する存在であった。(略)
他方、高崎の両替商の須藤清七による昇明社が設立されたのは明治二十三年のことである。
この二社がこの時期の高崎製糸業で支配的地位を占めていたとはいえ、製糸諸結社の簇生的状況の中から、都市商業資本による問屋制型改良座繰製糸によって高崎周辺部にその支配の網の目を張りめぐらすには至らなかった。」
おや?と思うのは、「須藤清七が設立」とあることです。
前掲の表では、代表者は須藤市之助となっていましたが・・・。

ここで、須藤清七について少し書いておきましょう。
高崎の大実業家でありながら、その生涯を著したものは意外と少ないのですが、多胡碑記念館和田健一氏の「石碑めぐり」の記事が実によくまとまっているので、使わせて頂きます。


少し補足すると、父は岡田平左衛門、母は竹女、清七の幼名は柳太郎
元旦の生まれだと言いますから、そこからして傑物です。
幼くして少林山達磨寺の僧に書算を習い、家業の農事を嫌って村の群童と商いごっこをして遊んでいたと言います。

志を抱いて江戸へ出たのは嘉永元年(1848)十四歳の時、働きぶりが主人に認められ、十七歳にして番頭として店の一切を任されるようになります。
独立を決意して鼻高村の故家へ帰ったのが安政三年(1856)(安政五年説もある)四ッ屋町に移って古着商を始めるのはその翌年のことです。

自分の衣類を売って得た金十円を元手に、日々古着を背負って市内外各地を行商して歩き、次第に売上を増やしていきました。
そして二十四歳で妻を娶り、妻の姓である須藤となります。
(参考図書:「上毛近世百傑伝」)

前掲「石碑めぐり」の文中、「蚕種業に転じて大失敗」というのが出てきますが、「上毛近世百傑伝」ではこう書かれています。
時に年廿七歳 后(の)チ高崎藩の竝用達(御用達)ヲ申付ラル君ハ 蠶種ヲ輸出セント欲シ 數萬枚ヲ越後國ヨリ買入レ 横濱ニ持チ往キタルニ 意外ニ失敗ヲ生ス
君數年ノ刻苦奔走貯蓄シタル金圓一時ニ消滅ス
嗚呼恐ル可キハ商業ナル哉」
それまでの貯蓄が一時に消滅したというんですから、えれーこん(えらいこと)です。

それにもめげず再び横浜で成功をおさめ、明治三年(1870)高崎九蔵町「第二国立銀行」の真ん前に両替店を開くわけです。


そして明治二十三年(1890)山田町に器械製糸工場を設立し、「昇明社」ブランドで海外貿易に乗り出します。



しかし、明治二十八年(1895)の「第四回内国勧業博覧会」の審査では、あまり良い評価を得られませんでした。

「昇明社出品は糸質不良にして絡交(らっこう:生糸を枠に巻き取る際に生糸に与える一定の秩序)不正、加うるに色沢(しきたく:色つや)また佳ならず」なんて言われちゃってます。

そしてやがて衰退していくのです。
「高崎産業経済史」の続きを読んでみましょう。
さて、「第三次全国製糸工場調査表」(1900年現在)には昇明社は掲載されていない。
また明治三十年の「勧業年報」に記載されたのを最後に、「年報」に登場しなくなる。
おそらく同社はこの頃から急速に衰退過程を辿ったものと推定される。」

明治三十三年(1900)65歳の清七は家政を嗣子・市之助に任せ、自身は別荘「椿荘」(現・暢神荘)で悠々老後を送ろうと思っていたようです。

が、高崎市に於いて水力電気事業の計画が起こり、もうひと頑張りすることになるのですが。

一方「昇明社」は、明治四十三年(1910)「信用販売組合甘楽社山田組」と改称されますが、昭和四年(1929)発行の「上毛産業組合史」には「経営を誤り中途で解散するの止むなきに至ったか」という記述があります。

さて、かつて「昇明社」があった場所は何処で、今はどうなっているんでしょう。
「昇明社」の住所は山田町9番地だということが分かっており、明治時代の道筋も割合と残っていますので、ここら辺だなと見当がつきます。


「高崎聖オーガスチン教会」の真ん前です。


「山田町」、なかなか面白い歴史をもつ町です。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年04月08日

高崎唱歌散歩-27番の続き ♪北に連なる町々は・・・

九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町

九蔵町の北に連なるのは、椿町、高砂町、山田町です。


「椿町」(つばきちょう)は、慶長三年(1598)にできた町で、箕輪「椿山権現」を勧請する予定でその町名を付けたのに、井伊直政が慶長六年(1601)に佐和山へ移封することになっちゃったので、「椿山権現」の勧請は取りやめたけど町名は残ったという町です。

椿町で有名なのは、料亭「暢神荘」(ちょうじんそう)でしょう。



立派な庭園が自慢の老舗料亭です。

それもそのはず、かつての「高崎の三名園」のひとつで、唯一今に残る名園です。

その由来が、箸袋に記されています。


「暢神荘」を東へ行くと、「西郷山法華寺」に突き当たります。


このお寺について、「高崎志」はこう書いています。
昔箕輪椿山ニ法華堂トテアリシヲ、此ニ移ス、井伊直政ノ家臣西郷藤左衛門ト云者、中興シテ寺トス、
土俗相伝フ、慶長三年西郷藤左衛門町割検地ノ事ニアヅカリシガ、此地東北ノ隅ニシテ何レヘモ属シ難キ地ナル故、直政ニ請テ箕輪ノ法華堂ヲ移シ、中興シテ寺トスト云、故ニ西郷山ト号スト云伝タリ、」
「法華寺」を中興した西郷藤左衛門は、高崎城下町の町割をプランニングした人物だった訳です。

西郷家は名門で、徳川家康の側室・西郷局(さいごうのつぼね=お愛の方)は、二代将軍・秀忠の生母になります。
西郷局の従姉弟にあたるのが藤左衛門正員(まさかず)で、家康から井伊直政に遣わされ、箕輪の領地統治を担当していたと言います。(井伊直政家臣列伝 西郷正員 ~秀忠生母の一族~)

藤左衛門がプランニングした時の中山道は、本町から椿町を抜け、法華寺の前を南に折れて通町から倉賀野へ抜けるのが街道筋だったそうです。

藩主が井伊(十二万石)から酒井(五万石)になったので、中山道は椿町を通らず、手前の本町三丁目で南へ折れることになりました。
そうならなければ、椿町はもっと大きな町になっていたかもしれませんね。

「高砂町」(たかさごちょう)は明治五年(1872)にできた町で、それ以前は「江木新田」(えぎしんでん)と呼ばれていました。
過去記事がありますので、ご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-31 高砂町(1)

「山田町」(やまだちょう)は、「龍見町」と同じように、江戸詰めの高崎藩士を受け入れるためにつくられた町で、赤坂村の地内だったので「赤坂郭」と呼ばれました。
今も、それを彷彿させるような建物が残っています。


「山田町」という町名になるのは明治六年(1873)なんですが、なぜ「山田町」なのか、ちょっと不思議です。

田島桂男氏著「高崎の地名」にはこう書かれています。
この赤坂郭が、城の艮(うしとら:丑と寅の間、東北のこと)にあたり、艮は山の意味を持っていることから命名された。」

「高崎の散歩道 第十二集上」での金井恒好氏もこう書いています。
艮は鬼が出入りするという鬼門の方位。
鬼は伝説上の山男であることから、鬼門である艮の方位を山と見立てて山の字を、また、赤坂郭は赤坂村の田地に置かれたので田の字をとり、これを組合わせて山田町と命名した。」

鬼が出入りする町なんて、あまり縁起の良い町名とは言えませんよね。
教養・博識に富んだ昔の人がそんな町名を付けるでしょうか。

私なりにちょっと調べてみたのですが、そもそも「鬼門」という考え方は、中国の「山海経」(せんがいきょう)という伝説的地理書や中国民話に出てくるもののようです。
ものによって多少のちがいはありますが、おおよそこんな話です。
滄海(東海)のなかに度朔山(どさくさん)があり、山上には大桃木がある。
三千里にもわたって曲がりくねり、枝の間の東北方を鬼門といい、そこは萬鬼(ばんき)が出入りするところとなっている。
山上には二神人がいて、萬鬼をみはっていた。
悪害をもたらす鬼は葦の縄で縛ってとらえ、虎の餌食とした。」
(Wikipedia)
ということから隠居が思いついたのは、こうです。
赤坂郭はたしかに鬼門ではあるけれども、「山」の上には二人の神人がいて、鬼が悪さをしないようにちゃんと見張っているから大丈夫だよ、これから発展して「田町」のように栄えるんだよ。
そんな思いを込めた町名だったのではないかと、ひとり思っている次第です。

「山田町」については、もう少し書きたいことがあるので、また次回に続けましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年04月01日

高崎唱歌散歩-27番 ♪九蔵町には大雲寺・・・

九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町

「九蔵町」という町は、その由来からして面白い町です。
過去記事「史跡看板散歩-28 九蔵稲荷」をご覧ください。

「大雲寺」は、高崎城の鬼門除けとして慶長四年(1599)に箕輪から移されたお寺です。


もう14年前になりますが、高崎歴史資料研究会代表の中村茂先生から「大雲寺に山本勘助の子孫の墓がある」と教えて頂き、驚いたことがあります。
今では、多くの人に知られているようです。

「大雲寺」には他にも有名人のお墓がいくつもあります。
寺所蔵の市重要文化財「水墨雲龍図」を描いた武居梅坡とそれに補筆した娘婿の梅堤、梅坡の養父で歌人の武居世平の墓が並んで建っています。


梅坡梅堤の作品は、あの「和泉庄御殿」にもありましたね。



武居世平の歌は、成田山光徳寺にある和田三石のひとつ「上和田の円石」に刻まれています。


絵師とすれば、江戸末期から明治にかけて活躍した高崎の浮世絵師・一椿斎芳輝(歌川芳輝)の墓も「大雲寺」にあります。

ただ、どこにあるのかちょっと分かりにくい。
芳輝の本名は芳三郎、江戸日本橋から上州高崎の旅籠屋「壽美餘志」(すみよし)を営む田中家へ婿入りします。
その田中家の墓域が北東隅にあるのですが、芳輝の墓は物陰にひっそり隠れるように建っています。

戒名「流芳院永寿椿翁居士」がようやく読めました。

芳輝の子と孫は、それぞれ有名な旅館や割烹店を営みます。
  ◇駅から遠足 観音山(35)

それに因む三基の墓石が同じ墓域に並んで建っています。

台石に「宇喜代」「高崎館」「錦山荘」と刻まれているのが読めるでしょうか。
そのどれもが閉館してしまったのは、誠に残念なことです。

九蔵町は、高崎城鬼門除けの「寺町」でしたが、明治に入って二つの銀行が建ち並ぶ「銀行街」になりました。

その先駆けとなったのが、「第二国立銀行」「茂木銀行」です。
過去記事がありますので、そちらをご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-117 旧第二国立銀行と茂木銀行跡

さて長くなりました。
「北に連なる 椿高砂山田町」については、次回ということに。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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