それに続ける新(あら)町は
憲兵屯所に延養寺
ここに設けし授産場は
軍人遺族の為とかや
憲兵屯所に延養寺
ここに設けし授産場は
軍人遺族の為とかや
「新町」を「あら町」とひらがな表記するようになったのは平成十八年(2006)。
多野郡の「新町」(しんまち)と合併したので、同じ高崎で同じ漢字表記だとどっちか分からなくなるからという訳ですが、なにも「あら町」などという野暮な表記にしなくとも、多野郡だった方を「多野新町」とすればよかったのではないかと、今だに思っております。
「新(あら)町」について「高崎志」はこう書いています。
「 | 新町ハ連雀町ノ南ニ続ク、和田氏ノ時ヨリ民家アリ、地ノ旧名未詳、 |
昔此所ニ飯塚常仙ト云者アリ、此辺ノ荘屋也、 慶長四年井伊家当城ニ移徙アリシ日、常仙酒殽ヲ奉シテ祝賀シ、且其日竈火焚始ノ薪ヲ献ス、 |
|
此事ヲ嘉例トシテ是年城主ヨリ常仙ニ命ジテ五月端午殿閣諸門ニ菖蒲ヲ葺シメ、又其年ノ暮ニ松飾ヲナサシメラレシト也、今ニ至迄、城中諸門ニ菖蒲ヲ葺、門松ヲ建ルニ、此町ヨリ人夫ヲ出シテ其事ヲ為コトハ、井伊氏ノ嘉例也ト云、新町ノ名ハ其義未詳、城主ヨリ賜リシト云伝タリ、」 |
「憲兵屯所」は、憲兵の詰所のようなもんでしょうか。
「兵の詰所」なんだから十五連隊の中に設ければ良さそうなものですが、その役務はあくまでも軍を取り締まる警察組織なので、営外に置いたのでしょう。
新町のここに「憲兵屯所」はありました。
大正五年(1916)の地図ではこうなっています。
ちょっと字が潰れていて読み取りにくいですが、「矢島八郎」の隣に「憲兵分隊」と読めます。
「憲兵分隊」の土地は、矢島八郎が宅地の一部を提供したからです。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」に、こう記載されています。
「 | 設置ノ始メハ第一憲兵隊群馬憲兵分隊ト稱シ、(明治)二十九年一月十三日、嘉多町覺法寺ニ事務所ヲ設ケ、前橋町ニ屯所ヲ置ク、同年五月十五日、今ノ廳舎落成ス、該地所ハ故八島八郎ノ寄附ナリ、 同年四月、渋川、桐生兩町ニ屯所ヲ置カリシモ、三十六年六月十八日廢セラル。 |
同三十六年四月一日、今ノ名ニ改メラル、創立當時ハ群馬分隊首部及ビ高崎屯所ヲ置カレ、三十一年十二月一日高崎憲兵分隊本部高崎町憲兵屯所ト稱シタリ、三十七年四月一日、高崎憲兵分隊ヲ廢止シ、東京憲兵分隊高崎市分遣所トナリ、四十一年三月十日、宇都宮憲兵分隊高崎分遣所ト改正セラレ、同四十四年八月十五日編成法改正ノ結果、再ビ元ノ名稱、則チ高崎憲兵分隊ト偁シ・・・」 |
この「憲兵屯所」が建設される五年前の明治二十四年(1891)、矢島八郎はここに家を新築します。
ところがその四年後、通町から出た火は663戸を焼く大火となり、矢島八郎の家も全焼してしまいます。
矢島邸の門は高崎城の「子の門」を移築したものでした。
矢島は、焼け落ちた鯱鉾の破片を集めて屋根の辺りを見上げ、長大息をしていたと言います。
焼けて更地になったことも、「憲兵屯所」用地を提供する要因になったのかも知れません。
大正六年(1917)頃の「憲兵屯所」です。
昭和二十九年(1954)、「憲兵屯所」跡地は「前橋地方法務局高崎支局」になりました。
平成二十九年(2017)のGoogleストリートビューには、「憲兵屯所」への入口跡が写っています。
「金子写真館」と「マスムラ酒店」の間が入口跡です。
「延養寺」については、過去記事をご覧ください。
◇史跡看板散歩-26 文学僧・良翁
さて、「ここに設けし授産場」ですが、これにも矢島八郎が関わっています。
「矢島八郎銅像建設趣旨書」に、こう記されています。
「 | 翁が七十年の生涯を通じて就中其功績の顯著・沒すべからざるは高崎上水道敷設と、廢兵遺族救助法の實施なりとす。(略) |
若し夫れ廢兵遺族救護法に至っては、翁が一將功成りて萬骨枯るゝの悲慘事を日露戰役直後の事實によって見分し、國家が不具廢疾の軍人軍屬並に遺族に酬ゆる所の薄きを嘆き、三十九議會に該法律案を提出し、熱誠以て輿論に訴へ、遂に其目的を達せるもの・・・」 |
戦争さえなければ、そんな授産場も要らなかったんですよねぇ。