2010年03月05日

三国街道 帰り道(9)

三国街道 帰り道(9)堤ヶ岡の小字名の図の中に、「旧飛行場」と書いてある所があります。

ここが、終戦直前に特攻隊の飛行訓練を行っていた「堤ヶ岡飛行場」です。

「堤ヶ岡飛行場」建設の動きが俄かに起こったのは、日本の戦局がそろそろ怪しくなっってきた昭和十八年(1942)のことでした。

陸軍航空本部の井上廣也主計大尉が、飛行場建設の説明のため堤ヶ岡村へ来ると、あっという間に、農民は土地売り渡しの調印をすることになります。

三国街道 帰り道(9)その結果、堤ヶ岡村136ha、国府村22ha、中川村2haの合計160haが飛行場建設用地となりました。

現在の地図にその区画を描いてみると、こんな感じでしょうか。→
売り渡しとは言うものの、支払は全て農地証券で行われたため、現金として受け取った人はほとんどいなかったようです。
終戦後、未払代金の請求を行っても、なかなか支払はなされなかったと言います。

そんな飛行場の建設は突貫工事で行われ、昭和十九年(1943)三月には初めての飛行機が着陸しますが、滑走路は金網を敷いただけの俄か造りだったそうです。
八月になると、「宇都宮飛行学校前橋教育隊」という呼称になり、特別操縦見習士官150名が入隊、少年飛行兵80名も古河から転属してきます。
訓練中の飛行機が、神社の屋根を壊したり、民家に墜落したりという事故もありました。
九月末には少年飛行兵は南方へ出発し、十月になると前橋教育隊は閉鎖、「熊谷飛行学校前橋分教場」と呼び名が変わります。

三国街道 帰り道(9)その分教場も昭和二十年(1944)二月に閉鎖されて、中島飛行機製作所(現・富士重工業)の分工場が疎開してきます。

そこで製作を始めたのが、当時の最新鋭戦闘機・疾風(はやて)でした。

昭和二十年(1945)三月、「堤ヶ岡飛行場」に到着したのが、特別攻撃隊「誠(まこと)隊」(通称:正気[せいき]隊)の36名です。
その月の二十六日に堤ヶ岡を後にした誠隊の隊員は、翌月、宮崎県新田原から出撃して沖縄洋上に命を散らしていきます。

誠隊堤ヶ岡を離れる直前、高崎女子高等学校の女学生三人が慰問に訪れ、手作りの人形を隊員に手渡しています。
その人形が、鹿児島県知覧特攻平和会館に展示されているそうです。
また、第三七誠隊小林敏男隊長の日記には、次のような短歌が残されています。
   赤城山 頂く雪の溶け初めて
           光のどけき 春訪れぬ
   故郷の 筑波の山の小さきに
           二十五年の 生命を想ふ


終戦間近になった昭和二十年(1945)七月、「堤ヶ岡飛行場」上空にグラマン戦闘機六機が飛来し、飛行場とその周辺を銃・爆撃します。
同じ時期に、所沢から「陸軍航空輸送部第九飛行隊前橋派遣隊」(奥村隊)83名が転属してきます。
まだ年端もいかぬ、十七・八歳の少年ばかりでした。
金古常仙寺本堂を宿舎にして一か月の飛行訓練の後、八月に特攻隊として編成されますが、終戦のため出撃することはありませんでした。

終戦後、「堤ヶ岡飛行場」跡地には米軍が駐留しますが、その後、開拓の許可を得て農民の手に戻ることになります。
この記事トップの、小字名の図の中に「入植地」とあるのが、その開拓地です。

戦争に翻弄された、堤ヶ岡の二年間でした。
今、そんな歴史も忘れ去られようとしていますが、貴重な戦争遺跡として、何らかの形で語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。
「堤ヶ岡飛行場」に関するリンク集を、以下にまとめておきます。

「貴重な堤ヶ岡飛行場の写真見つかる」(群馬県県民レポート)
「戦争の実相を語りつづける遺跡」(Yahoo!JYAPAN週間特集)
「特攻 出撃前、人形と血書」(YOMIURI ONLINE)
「堤ヶ岡飛行場について」(高崎市市民の声)

(参考図書:「群馬町誌」)





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Posted by 迷道院高崎 at 07:31
Comments(7)三国街道
この記事へのコメント
迷道院様こんばんは。
堤ヶ岡飛行場について、例によって昭和10年生まれの母親に思い出話をインタビューしてみました。聞き取ったところによると、終戦直後
飛行場の兵舎を当時中学生だった母親は掃除をさせられ、そのまま群馬町の中央中学校として使ったとの事でした。掃除したとき兵舎はもの凄く汚く散らかっていた。との証言を得ました。一昨年知覧の平和記念館を訪れたのですが女学生のお人形は印象に残っていないので、見逃したんですね。残念。ただコンビニの駐車場で地べた座りなどしている昨今の若者に記念館を見せてやりたいです。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年03月05日 18:27
追記です。兵舎の掃除を命じられたのは金古小学校高学年の時みたいですね。
母親もボケがきてますので。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年03月05日 18:50
>柏木沢の農家おじさん様

そうですか、中央中学校の開校は昭和二十二年ですから、お母様のご記憶は確かなようですよ。
戦前の国民学校は、初等科6年、高等科2年の8年制でしたから、小学生でもあり、中学生でもあった訳ですね。

知覧に行かれたんですか。
私はまだですが、知覧、そして長崎と沖縄はこの目で見ておきたいと思っています。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月05日 20:18
イオンモールには時々買い物に行きますが、
随分広々とした土地があったのだなぁとは思っていました。
飛行場があったのですね。そして悲しい史実も・・・。
日記に残された短歌を読んでウルウルしてしまいました。
Posted by 風子  at 2010年03月05日 20:22
>風子さん

小林敏男隊長、二十五歳ですよ。
自分の二十五歳を思い出して、恥ずかしさで顔が赤くなる思いです。
覚悟も教養も、持っていたんですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月05日 20:51
2008年の群馬総文で前橋女子高校の音楽部が前橋空襲と堤ヶ丘飛行場をテーマにした劇を公演しました。その際には当時の方々に伺い、詳細な聞き取り調査を行ったそうです。

この公演のドキュメンタリーをNHKの番組で拝見して、恥ずかしながら初めて堤ヶ丘飛行場のことを知りました。
後世に残して欲しい歴史です。
Posted by ふれあい街歩き  at 2010年03月06日 00:16
>ふれあい街歩きさん

そんな劇の公演があったんですかー。
NHKのドキュメンタリーも見ていませんでした。
アーカイブで再放送して欲しいなぁ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月06日 08:08
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