今日の話は長くなりそうです。
←前回ご紹介した「飯玉さま」に出てくる「鳥啄池(とりばみのいけ)跡」に置かれている石ですが、「平亀石」と言うそうです。
そういわれると、亀に見えてくるから不思議ですね。
でもこの「平亀石」は、前回書いた御魂代(みたましろ)の「亀石」とは別物です。
「亀石」は今でも本殿に大切に奉安されているそうですが、残念ながら御開帳はしていないとのことです。
また、これも前回書いたことですが、「亀石」は「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊で、そこから倉賀野神社のご祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」とされております。
ところで「飯玉さま」のことですが、「飯玉」と名のつく神社はどうも群馬県に多いようです。
群馬県神社名鑑によると県下に27社、内、高崎は4社が「飯玉神社」という名称だそうです。
何となく「ご飯」に関係ありそうな名前ですが、実はその通りで、ご祭神の多くは食物の神様「保食神(うけもちのかみ)」です。
この神様は、日本書紀にこんな神話として登場します。
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が、「月夜見尊(つくよみのみこと)」に「保食神(うけもちのかみ)」という神を見てくるように命じました。
「保食神」は、「月夜見尊」をもてなすために、米飯や魚や肉をを用意するのですが、何とそれを口から吐き出したというのです。
それを見た「月夜見尊」は怒って、「保食神」を斬り殺してしまいます。
今度は、そのことを聞いた「天照大神」が「月夜見尊」を怒ります。
「もうお前とは会いたくない。」と言って、それ以降、太陽と月は別々に出るようになったのだそうです。
そして、斬り殺された「保食神」の遺体からは、いろいろな穀物や牛馬、蚕が生まれ出たといいます。
さて、ここからは私のまったくの推論、私論です。
なぜ「亀石」を御魂代(みたましろ)とした神社に、「保食神」つまり「飯玉さま」の言い伝えが残っているのかという謎解きです。
「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が祀った「亀石」は、東国平定の戦いを無事務めるための神様でした。
倉賀野神社の社殿は、それより下ること1300年後の建長五年(1253)に倉賀野城主・倉賀野三郎高俊が建替えたと言われています。
そして、社名を「飯玉大明神」と呼ぶようになったのは、さらに下って江戸時代のことです。
その頃には、「亀石」は「雨乞い石」として信仰されるように変わってくるのです。
神社は、その時々の人々の願いや祈りの場として存在します。
戦の絶えない時代にあっては、その勝利のためや災厄を免れるための祈りの場となり、平時にあっては、五穀豊穣や平穏な暮らしを祈る場として、変化していったと思われます。
「飯玉縁起」で「八郎大蛇」が過去の恨みを悔い改めて「龍神」になったという話は、それを裏付けているような気がします。
「龍神」は水の神様です。
「龍神になって烏川の辺に飛び去った」というのも、稲作に必要な水の恵みと関係するでしょう。
「亀石」が「雨乞い石」になったというのも、稲作と大いに関係がありそうです。
考えてみれば、「倉賀野」という地名も、「穀物を格納する倉のある喜ばしい平野」というのを連想させます。
しかし、「飯玉大明神」が、再び「大国魂神社」と社名を変える時がきます。
明治十年(1877)、日本最後の内戦「西南戦争」のあった年です。
その後、明治二十七年(1894)には日清戦争、明治三十七年(1904)には日露戦争が勃発します。
そして、明治四十三年(1910)に「倉賀野神社」と改称されますが、それでも昭和二十年(1945年)まで断続的に戦争は続きました。
曲がりなりにも太平の世が続いている今、「妬まず、恨まず、民のため」という「飯玉縁起」の教えを語り継ぐために、「飯玉さま」という呼び名を復活してはいかがでしょうか。
長い記事を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

そういわれると、亀に見えてくるから不思議ですね。
でもこの「平亀石」は、前回書いた御魂代(みたましろ)の「亀石」とは別物です。
「亀石」は今でも本殿に大切に奉安されているそうですが、残念ながら御開帳はしていないとのことです。
また、これも前回書いたことですが、「亀石」は「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊で、そこから倉賀野神社のご祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」とされております。
ところで「飯玉さま」のことですが、「飯玉」と名のつく神社はどうも群馬県に多いようです。
群馬県神社名鑑によると県下に27社、内、高崎は4社が「飯玉神社」という名称だそうです。
何となく「ご飯」に関係ありそうな名前ですが、実はその通りで、ご祭神の多くは食物の神様「保食神(うけもちのかみ)」です。
この神様は、日本書紀にこんな神話として登場します。
~……~……~……~……~……~……~……~……~
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が、「月夜見尊(つくよみのみこと)」に「保食神(うけもちのかみ)」という神を見てくるように命じました。
「保食神」は、「月夜見尊」をもてなすために、米飯や魚や肉をを用意するのですが、何とそれを口から吐き出したというのです。
それを見た「月夜見尊」は怒って、「保食神」を斬り殺してしまいます。
今度は、そのことを聞いた「天照大神」が「月夜見尊」を怒ります。
「もうお前とは会いたくない。」と言って、それ以降、太陽と月は別々に出るようになったのだそうです。
そして、斬り殺された「保食神」の遺体からは、いろいろな穀物や牛馬、蚕が生まれ出たといいます。
~……~……~……~……~……~……~……~……~
さて、ここからは私のまったくの推論、私論です。
なぜ「亀石」を御魂代(みたましろ)とした神社に、「保食神」つまり「飯玉さま」の言い伝えが残っているのかという謎解きです。
「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が祀った「亀石」は、東国平定の戦いを無事務めるための神様でした。
倉賀野神社の社殿は、それより下ること1300年後の建長五年(1253)に倉賀野城主・倉賀野三郎高俊が建替えたと言われています。
そして、社名を「飯玉大明神」と呼ぶようになったのは、さらに下って江戸時代のことです。
その頃には、「亀石」は「雨乞い石」として信仰されるように変わってくるのです。
神社は、その時々の人々の願いや祈りの場として存在します。
戦の絶えない時代にあっては、その勝利のためや災厄を免れるための祈りの場となり、平時にあっては、五穀豊穣や平穏な暮らしを祈る場として、変化していったと思われます。
「飯玉縁起」で「八郎大蛇」が過去の恨みを悔い改めて「龍神」になったという話は、それを裏付けているような気がします。
「龍神」は水の神様です。
「龍神になって烏川の辺に飛び去った」というのも、稲作に必要な水の恵みと関係するでしょう。
「亀石」が「雨乞い石」になったというのも、稲作と大いに関係がありそうです。
考えてみれば、「倉賀野」という地名も、「穀物を格納する倉のある喜ばしい平野」というのを連想させます。
しかし、「飯玉大明神」が、再び「大国魂神社」と社名を変える時がきます。
明治十年(1877)、日本最後の内戦「西南戦争」のあった年です。
その後、明治二十七年(1894)には日清戦争、明治三十七年(1904)には日露戦争が勃発します。
そして、明治四十三年(1910)に「倉賀野神社」と改称されますが、それでも昭和二十年(1945年)まで断続的に戦争は続きました。
曲がりなりにも太平の世が続いている今、「妬まず、恨まず、民のため」という「飯玉縁起」の教えを語り継ぐために、「飯玉さま」という呼び名を復活してはいかがでしょうか。
長い記事を最後までお読み頂き、ありがとうございました。
【倉賀野神社】