国道406号「下大島町」交差点北の、ガソリンスタンド前の細道を西へ入って500mほど行くと、「大嶋神社」の前に出ます。
史跡看板は、鳥居を潜ってすぐ右に建っています。
前身は屋敷の「石神社」で、そこに森田の「榛名神社」を合祀してできたのが「大嶋神社」だと書いてあります。
屋敷と森田は、隣合う字(あざ)です。
「石神社」と言えば、下豊岡の「石神社」は「しゃくじ・じんじゃ」と読みますが、ここは何と読んだのでしょう。
近藤章氏が、「高崎の散歩道 第九集」で「大嶋神社」について書いています。
また、高崎市教育委員会発行「豊岡・八幡の民俗」には、神社合祀の経緯が書かれています。
いずれの文にも「石神社」にふり仮名が振られていないところをみると、素直に「いしじんじゃ」でいいのかも知れません。
それにしても、大変な経緯があって建立された社殿なんですね。
素朴ながら、格調の高さを感じられる、いい社殿です。
拝殿の中を、覗かせて頂きました。
飾られている写真を拡大してよーく見ると、手前に大勢の人たちが写っているようです。
きっと、大正六年(1917)の竣工式典の時の写真なんでしょうね。
拝殿の右に建っているのは、たぶん「稲荷社」でしょう。
社殿の左にズラーっと並ぶ石祠。
「石神社」「榛名神社」両社の境内社なのかな。
大樹の下の涼しくて静かな「大嶋神社」でした。
史跡看板は、鳥居を潜ってすぐ右に建っています。
前身は屋敷の「石神社」で、そこに森田の「榛名神社」を合祀してできたのが「大嶋神社」だと書いてあります。
屋敷と森田は、隣合う字(あざ)です。
「石神社」と言えば、下豊岡の「石神社」は「しゃくじ・じんじゃ」と読みますが、ここは何と読んだのでしょう。
近藤章氏が、「高崎の散歩道 第九集」で「大嶋神社」について書いています。
「 | 大島神社はまた伝えによると石上(いそのかみ)氏の八幡宮ともいわれている。 |
石上氏は箕輪の長野氏との関係もあり、古代では物部氏の流れも考えられ、八幡の観音塚古墳もこの附近の石上氏の墓にも考えられている。 | |
この附近一帯、古代では石上氏の勢力圏でもあったのか。(略) | |
この神社も、稲荷様が中世には箕輪城長野氏の守り神となり、武人の神八幡宮に変化し、近代になっては上下大島の部落の神社として大島神社に変身したのかもしれない。」 |
また、高崎市教育委員会発行「豊岡・八幡の民俗」には、神社合祀の経緯が書かれています。
「 | 明治四十一年の県指令によって多くの神社が廃合させられたが、下大島の両社は、維持・管理の為の資産と組織が確立されていなければならないという規定をクリアした為、社格を認められ、相談して両社を石神社の地に新社殿を建てて合せ祠ることにした。(四十一年七月六日、村社石神社と改称同年同月村社大島神社と改称) |
四十二年春、棟梁織田米吉(上大島)を選定し建築が始まり、間もなく新社殿は完成したが、四十三年の大洪水で村は大被害を被ったこともあり、竣工式は延び延びになった。 | |
大正六年、災害の復旧もなり村に平穏もおとずれたので、境内地の整理をし、三月二十九日の春祭りの日に八幡宮神主竹林氏のもとに盛大な竣工式典を挙行した。」 |
いずれの文にも「石神社」にふり仮名が振られていないところをみると、素直に「いしじんじゃ」でいいのかも知れません。
それにしても、大変な経緯があって建立された社殿なんですね。
素朴ながら、格調の高さを感じられる、いい社殿です。
拝殿の中を、覗かせて頂きました。
飾られている写真を拡大してよーく見ると、手前に大勢の人たちが写っているようです。
きっと、大正六年(1917)の竣工式典の時の写真なんでしょうね。
拝殿の右に建っているのは、たぶん「稲荷社」でしょう。
社殿の左にズラーっと並ぶ石祠。
「石神社」「榛名神社」両社の境内社なのかな。
大樹の下の涼しくて静かな「大嶋神社」でした。
【大嶋神社】