保渡田北部公会堂に、「保渡田城址」の史跡看板が建っています。
ちょうど、近くの「榛名神社」の獅子舞奉納の日だったようです。
城郭図の中に現在地が描かれていて、位置関係がとても分かりやすい看板です。
振り向くと、看板にある「本丸の櫓台跡(天主山)」が見えます。(山崎一氏著「群馬の古城」では「天守山」となっている。)
満開の桜の花びらが、ハラハラと舞っていました。
行ってみると、「天子塚古墳」と書かれた杭が建っていて、埴輪の兵士がひとり立ち番をしてました。
上ってみると、正面に「秋葉大神」が祀られていて、かつてはお社が建っていたらしい痕跡があります。
その向かい側はたくさんの庚申塔が並ぶ、いわゆる「百庚申」。
墳頂の「百庚申」からすれば「庚申塚古墳」でよさそうなものですが、なんで「天子塚古墳」なんでしょう。
読み方は「あまご塚」なんでしょうか、「てんし塚」なんでしょうか。
あー、もしかすると「天守塚古墳」なのかも知れませんね。
それとも逆に、「天守山」じゃなくて「天子山」なのか。
う~ん・・・。
本郭跡が一望に見下ろせます。
「二の郭(北城)の土塁や堀跡が残っている」というので行ってみましたが、どうやら民家の高い塀の中らしく、多分これだろうと思って写真を撮ってきました。
反対側の空き地にも失礼ながら無断侵入し、写真を撮らせて頂きました。
けっこうな高さの土塁です。
山崎一氏著「群馬の古城」の中で、「保渡田城」についてこう記述されています。
「保渡田砦を改修して居城した」という内藤昌豊は、「武田二十四将」の一人で、「武田四天王」の一人でもあるという、すごい武将だったようです。
その内藤昌豊の墓が、「保渡田城址」の北西730mの所にあります。
そして、その「内藤塚」の南南東1.7kmの所には、武田に滅ぼされた長野業盛の墓があります。
折しも、「我こそは!」と大音声で名乗りを上げながら、鉄の馬に乗って駆け回っている武将の姿を見かけます。
また、戦が始まるらしいです。
ちょうど、近くの「榛名神社」の獅子舞奉納の日だったようです。
城郭図の中に現在地が描かれていて、位置関係がとても分かりやすい看板です。
振り向くと、看板にある「本丸の櫓台跡(天主山)」が見えます。(山崎一氏著「群馬の古城」では「天守山」となっている。)
満開の桜の花びらが、ハラハラと舞っていました。
行ってみると、「天子塚古墳」と書かれた杭が建っていて、埴輪の兵士がひとり立ち番をしてました。
上ってみると、正面に「秋葉大神」が祀られていて、かつてはお社が建っていたらしい痕跡があります。
その向かい側はたくさんの庚申塔が並ぶ、いわゆる「百庚申」。
墳頂の「百庚申」からすれば「庚申塚古墳」でよさそうなものですが、なんで「天子塚古墳」なんでしょう。
読み方は「あまご塚」なんでしょうか、「てんし塚」なんでしょうか。
あー、もしかすると「天守塚古墳」なのかも知れませんね。
それとも逆に、「天守山」じゃなくて「天子山」なのか。
う~ん・・・。
本郭跡が一望に見下ろせます。
「二の郭(北城)の土塁や堀跡が残っている」というので行ってみましたが、どうやら民家の高い塀の中らしく、多分これだろうと思って写真を撮ってきました。
反対側の空き地にも失礼ながら無断侵入し、写真を撮らせて頂きました。
けっこうな高さの土塁です。
山崎一氏著「群馬の古城」の中で、「保渡田城」についてこう記述されています。
「 | 大部分は既に壊滅してしまっているが仔細に観察すれば螺旋状構造の城郭を想定することが出来る。(略) |
こうした構造は、この城が小城乍らもかなり進歩した型式であることを示し、諸記に記されているように永禄年間、内藤昌豊の築城であるということを裏付けている。」 |
「保渡田砦を改修して居城した」という内藤昌豊は、「武田二十四将」の一人で、「武田四天王」の一人でもあるという、すごい武将だったようです。
その内藤昌豊の墓が、「保渡田城址」の北西730mの所にあります。
そして、その「内藤塚」の南南東1.7kmの所には、武田に滅ぼされた長野業盛の墓があります。
折しも、「我こそは!」と大音声で名乗りを上げながら、鉄の馬に乗って駆け回っている武将の姿を見かけます。
また、戦が始まるらしいです。
【保渡田城址】
【内藤塚】
【伝・長野業盛の墓】
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