国道17号上並榎町の信号を高崎経済大学方面へ700mほど行くと、左側に「厄除元三大師」と刻まれた石柱が建っています。
石柱の左の道から回り込むと「天竜護国寺」の山門で、その左脇に史跡看板が建っています。
看板に「寺宝」と書かれている、小野道風(おのの・とうふう)真筆の「勅額」というのがこれです。
と言ってもこれはレプリカで、看板にあるように本物は年に一度、正月三日の縁日にだけ公開されます。
なぜその日かというと、「天竜護国寺」のご本尊でもある天台宗中興の祖・良源が入滅したのが、寛和元年(985)の正月三日だったからだそうです。
また、正月三日のことを「元三」(がんざん)というので、良源のことを「元三大師」ともいいます。
もうひとつ正月三日に公開されるものが、看板にもある「並榎八景絵巻」です。
「並榎八景絵巻」は寺宝として秘蔵されていましたが、その存在を初めて世間に紹介したのは郷土史家・本多夏彦氏だそうです。
もっとも本多氏も、資料収集のために「天竜護国寺」を訪れた佐藤雲外という人から聞いて、その存在を知ったということですが。
ただ、昭和七年(1932)発行の「上毛及上毛人」誌(第180号)に掲載された本多氏の「並榎八景絵巻」に対する記述は、意外と素っ気ないものです。
本堂の左側に金網で囲われた鶏小屋みたいなのが建っています。
中には、こんなものが入ってます。
説明板も何も建っていないので、鶏の餌の入れ物と間違えそうですが、実は「稲荷山古墳」の石棺の蓋です。
「並榎八景」のひとつ「稲荷山暮雪」というのはこの古墳の景を詠んだものです。
「稲荷山古墳」はいま跡形もないのですが、「天竜護国寺」から東へ200mほど行った所に、古墳に因んだ「稲荷橋」という名前の橋があります。
その橋の北200mほどの場所にあったのが、「稲荷山古墳」(全長約120m、高さ約8mの前方後円墳)です。
明治二十五年(1892)古墳の真ん中を切り通して、上並榎から筑縄(つくなわ)へ通じる村道が開かれました。
その時の発掘調査で石棺の蓋が発見され、「天竜護国寺」境内に移したということです。
そして明治四十二年(1909)になると東側の前方部も削られて桑畑となり、西側の後円部だけが残されます。
さらに下って昭和三十五年(1960)頃の耕地整理事業により、残った後円部も削平され、まったく跡形もなく消えてしまいました。
でも、その時削った古墳の土は第四中学校(現並榎中学校)の校庭整備に使われたということですから、もしかすると並榎中の校庭を掘ると古墳の土が出てくるかも知れませんね。
石棺の蓋が置いてある北側の池に、面白い形をした石があります。
これも説明板が建ってないのですが、「信玄の鍋掛(なべかけ)石」と呼ばれているそうです。
何でも、武田信玄の軍勢が箕輪城を攻撃する際に「天竜護国寺」で野営をし、その時この石に大鍋を掛けて煮炊きをしたんだとか。
そう言われてみれば、それに都合の良さそうな形をしてはいますが・・・。
さてと、次回はすぐ隣の「日枝神社」を訪問します。
石柱の左の道から回り込むと「天竜護国寺」の山門で、その左脇に史跡看板が建っています。
看板に「寺宝」と書かれている、小野道風(おのの・とうふう)真筆の「勅額」というのがこれです。
と言ってもこれはレプリカで、看板にあるように本物は年に一度、正月三日の縁日にだけ公開されます。
なぜその日かというと、「天竜護国寺」のご本尊でもある天台宗中興の祖・良源が入滅したのが、寛和元年(985)の正月三日だったからだそうです。
また、正月三日のことを「元三」(がんざん)というので、良源のことを「元三大師」ともいいます。
もうひとつ正月三日に公開されるものが、看板にもある「並榎八景絵巻」です。
「並榎八景絵巻」は寺宝として秘蔵されていましたが、その存在を初めて世間に紹介したのは郷土史家・本多夏彦氏だそうです。
もっとも本多氏も、資料収集のために「天竜護国寺」を訪れた佐藤雲外という人から聞いて、その存在を知ったということですが。
ただ、昭和七年(1932)発行の「上毛及上毛人」誌(第180号)に掲載された本多氏の「並榎八景絵巻」に対する記述は、意外と素っ気ないものです。
「 | 並榎八景繪巻はその跋によると、文化元年十一月に書かれたもので、時の護國寺住職一元法印の雅友等が繪筆をとり又これに詩歌各一首づゝを配したのであらう、皆高崎附近の人ばかりである。 |
序文があった(田豹の撰文)のが失はれて、開巻直ちに畫面であるが、群馬郡本郷村の人神宮守滿の筆に成れる繪は、餘り大したものではない。(略) | |
各七絶一篇を寄せてあるが、もともとこじつけの八景に過ぎぬのだから、題詩も左程優秀なものゝあらう筈がない。 | |
尚和歌は、(略)いづれも好事家の暇潰したるは申す迄もなし。」 |
本堂の左側に金網で囲われた鶏小屋みたいなのが建っています。
中には、こんなものが入ってます。
説明板も何も建っていないので、鶏の餌の入れ物と間違えそうですが、実は「稲荷山古墳」の石棺の蓋です。
「並榎八景」のひとつ「稲荷山暮雪」というのはこの古墳の景を詠んだものです。
「稲荷山古墳」はいま跡形もないのですが、「天竜護国寺」から東へ200mほど行った所に、古墳に因んだ「稲荷橋」という名前の橋があります。
その橋の北200mほどの場所にあったのが、「稲荷山古墳」(全長約120m、高さ約8mの前方後円墳)です。
明治二十五年(1892)古墳の真ん中を切り通して、上並榎から筑縄(つくなわ)へ通じる村道が開かれました。
その時の発掘調査で石棺の蓋が発見され、「天竜護国寺」境内に移したということです。
そして明治四十二年(1909)になると東側の前方部も削られて桑畑となり、西側の後円部だけが残されます。
さらに下って昭和三十五年(1960)頃の耕地整理事業により、残った後円部も削平され、まったく跡形もなく消えてしまいました。
でも、その時削った古墳の土は第四中学校(現並榎中学校)の校庭整備に使われたということですから、もしかすると並榎中の校庭を掘ると古墳の土が出てくるかも知れませんね。
石棺の蓋が置いてある北側の池に、面白い形をした石があります。
これも説明板が建ってないのですが、「信玄の鍋掛(なべかけ)石」と呼ばれているそうです。
何でも、武田信玄の軍勢が箕輪城を攻撃する際に「天竜護国寺」で野営をし、その時この石に大鍋を掛けて煮炊きをしたんだとか。
そう言われてみれば、それに都合の良さそうな形をしてはいますが・・・。
さてと、次回はすぐ隣の「日枝神社」を訪問します。
【天竜護国寺】
【稲荷山古墳があった場所】