「米百俵」を送ってもらった、長岡藩と小林虎三郎が有名になった割には、送った方のことは意外と知られていない。
今日は、送った側の、越後三根山藩についてご紹介をしよう。
三根山藩は新潟県の旧西蒲原郡巻町峰岡地区にあった。
三根山藩の誕生は、寛永十一年(1634)長岡藩主・牧野忠成が、四男・定成に六千石を与えて分家させた、云わば長岡藩の支藩である。
三根山の地は家一軒ない丘陵地で、領民たちが20年の歳月をかけて、山を削り、谷を埋めて、陣屋や宅地をつくったという。
その苦労ゆえに、領民たちは、自分たちの力で生まれた藩であるという誇りと、親しみを感じていた。
一方、藩主も領民たちの協力に感謝し、年貢を軽くしたり、災害時の援助を積極的に行った。
この、お互いに助け合い、感謝しあい、信じあう心は、藩風として育ち、伝統として受け継がれていった。
そんな三根山藩を翻弄させたのが、幕末期に勃発した戊辰戦争である。
本家の長岡藩が「奥羽列藩同盟」として新政府軍と戦っている中、支藩の三根山藩も当然同盟軍よりの動きを示していた。
ところが、その長岡藩が新政府軍に敗北する姿を見て、三根山藩の苦悩が始まることになる。
藩主は、小藩である三根山藩が、戦いに巻き込まれ疲弊することを避けたいという一心で、本家長岡藩に気兼ねしつつも、優勢であった新政府軍に協力すべく使者を立てることとした。
しかしこれが、同盟軍庄内藩の怒りを買い、庄内藩は、三根山藩陣屋に大砲を向けて、態度を明らかにせよと迫った。
困った三根山藩は、仕方なく同盟軍に兵を供出し政府軍と戦うが、同盟軍は政府軍の前に敗れ、庄内藩は国に逃げ帰ってしまう。
三根山藩は、すぐさま政府軍に「手向かう気はなかったのだが、やむを得ず・・・」という詫び状を送り、命じられた庄内藩との戦いにも参加して、何とか許してもらうことができた。
やがて戊辰戦争は政府軍の勝利に終わり、三根山藩は藩と領民を守ることができたものの、二度の出兵で藩財政は苦しい状態に陥ってしまう。
それにも増して三根山藩の心を重くしたのは、藩のためとはいえ、恩義ある本家・長岡藩に背く結果になったことであった。
その本家・長岡藩は、三根山藩以上に苦しい状況にあったのである。
城は落ち、城下は焼け野原となり、石高を減らされて、今日食べる米もない有様であった。
これを知った三根山藩は、
「分家以来ずっと世話になり、大名になれたのも本家のおかげ。
なのに、今度の戦では何の手助けもできなかった。
恩返しするのは今だ。」
と、領民とも相談したうえで、苦しい中から工面して長岡藩に送った「米百俵」であった。
思うに、苦しい時に助けてもらった感謝の念が、三根山藩の藩主、藩士、領民にその気持ちを起こさせたのであろう。
見苦しいまでに、政府軍と同盟軍のはざまで葛藤したのも、その感謝の念からに他ならない。
140年の時を経てなお、「米百俵」の精神は人を動かす力がある。
今日は、送った側の、越後三根山藩についてご紹介をしよう。
三根山藩は新潟県の旧西蒲原郡巻町峰岡地区にあった。
三根山藩の誕生は、寛永十一年(1634)長岡藩主・牧野忠成が、四男・定成に六千石を与えて分家させた、云わば長岡藩の支藩である。
三根山の地は家一軒ない丘陵地で、領民たちが20年の歳月をかけて、山を削り、谷を埋めて、陣屋や宅地をつくったという。
その苦労ゆえに、領民たちは、自分たちの力で生まれた藩であるという誇りと、親しみを感じていた。
一方、藩主も領民たちの協力に感謝し、年貢を軽くしたり、災害時の援助を積極的に行った。
この、お互いに助け合い、感謝しあい、信じあう心は、藩風として育ち、伝統として受け継がれていった。
そんな三根山藩を翻弄させたのが、幕末期に勃発した戊辰戦争である。
本家の長岡藩が「奥羽列藩同盟」として新政府軍と戦っている中、支藩の三根山藩も当然同盟軍よりの動きを示していた。
ところが、その長岡藩が新政府軍に敗北する姿を見て、三根山藩の苦悩が始まることになる。
藩主は、小藩である三根山藩が、戦いに巻き込まれ疲弊することを避けたいという一心で、本家長岡藩に気兼ねしつつも、優勢であった新政府軍に協力すべく使者を立てることとした。
しかしこれが、同盟軍庄内藩の怒りを買い、庄内藩は、三根山藩陣屋に大砲を向けて、態度を明らかにせよと迫った。
困った三根山藩は、仕方なく同盟軍に兵を供出し政府軍と戦うが、同盟軍は政府軍の前に敗れ、庄内藩は国に逃げ帰ってしまう。
三根山藩は、すぐさま政府軍に「手向かう気はなかったのだが、やむを得ず・・・」という詫び状を送り、命じられた庄内藩との戦いにも参加して、何とか許してもらうことができた。
やがて戊辰戦争は政府軍の勝利に終わり、三根山藩は藩と領民を守ることができたものの、二度の出兵で藩財政は苦しい状態に陥ってしまう。
それにも増して三根山藩の心を重くしたのは、藩のためとはいえ、恩義ある本家・長岡藩に背く結果になったことであった。
その本家・長岡藩は、三根山藩以上に苦しい状況にあったのである。
城は落ち、城下は焼け野原となり、石高を減らされて、今日食べる米もない有様であった。
これを知った三根山藩は、
「分家以来ずっと世話になり、大名になれたのも本家のおかげ。
なのに、今度の戦では何の手助けもできなかった。
恩返しするのは今だ。」
と、領民とも相談したうえで、苦しい中から工面して長岡藩に送った「米百俵」であった。
思うに、苦しい時に助けてもらった感謝の念が、三根山藩の藩主、藩士、領民にその気持ちを起こさせたのであろう。
見苦しいまでに、政府軍と同盟軍のはざまで葛藤したのも、その感謝の念からに他ならない。
140年の時を経てなお、「米百俵」の精神は人を動かす力がある。
(参考:考古堂出版「ビジュアルふるさと風土記 三根山藩」)