「大道西児育地蔵尊」から北へ500mほどの所に、「追分の三祀神」という史跡看板が建っています。
ここにある「三祀神」(さんししん)とは、「八坂神社」の素戔嗚尊(スサノオノミコト)、「愛宕神社」の火産霊尊(ホノムスビノミコト)、そして「道祖神」の三つの神様のようです。
「八坂大神・愛宕神社」碑には「明治三十五年建之 新田氏子中」、「道祖神」碑には「大正十五年十二月立つ 氏子中」の文字が碑背に刻まれています。
まだブログ駆け出しの7年前、ここを記事にしていました。
「八坂大神」は「牛頭天王」(ごずてんのう)でもあるので、飯塚町の人は「天王さま」と呼んでいるようです。
実は、飯塚町にはもう一つ「飯塚の天王様」という史跡看板が建っている所があります。
追分の天王さまから北東へ170m、「飯玉神社」のすぐ近くです。
看板の最後に記されている、「ベンガラの赤色の一部が残っている」のは、これのことらしいです。
この辺りも、7年前にウロウロしたことがありまして、ここも見ていたと思うのですが、何の説明看板もなかったのでスルーしていました。(◇神様・仏様 てんこ盛り)
やはり、史跡看板は必要なものだなぁと、あらためて思った次第であります。
また、近くには、こんな看板が立っている所もあります。
この辺に、かつて「上飯塚城」というのがあったということです。
古城塁研究家の山崎一氏によれば、「形式が和田下之城とよく似ている。城南の下之城が創築された永禄の頃、城北の支城として和田氏が築いたものではないか。」と推定しています。
また、「上飯塚城」には「下之城」同様、定着した城主が見当たらないのは、和田氏の直轄地だったのだろうと言っています。
なかなか見所の多い飯塚町です。
みなさんも、ぜひお出掛けを。
ここにある「三祀神」(さんししん)とは、「八坂神社」の素戔嗚尊(スサノオノミコト)、「愛宕神社」の火産霊尊(ホノムスビノミコト)、そして「道祖神」の三つの神様のようです。
「八坂大神・愛宕神社」碑には「明治三十五年建之 新田氏子中」、「道祖神」碑には「大正十五年十二月立つ 氏子中」の文字が碑背に刻まれています。
まだブログ駆け出しの7年前、ここを記事にしていました。
「八坂大神」は「牛頭天王」(ごずてんのう)でもあるので、飯塚町の人は「天王さま」と呼んでいるようです。
実は、飯塚町にはもう一つ「飯塚の天王様」という史跡看板が建っている所があります。
追分の天王さまから北東へ170m、「飯玉神社」のすぐ近くです。
看板の最後に記されている、「ベンガラの赤色の一部が残っている」のは、これのことらしいです。
この辺りも、7年前にウロウロしたことがありまして、ここも見ていたと思うのですが、何の説明看板もなかったのでスルーしていました。(◇神様・仏様 てんこ盛り)
やはり、史跡看板は必要なものだなぁと、あらためて思った次第であります。
また、近くには、こんな看板が立っている所もあります。
この辺に、かつて「上飯塚城」というのがあったということです。
古城塁研究家の山崎一氏によれば、「形式が和田下之城とよく似ている。城南の下之城が創築された永禄の頃、城北の支城として和田氏が築いたものではないか。」と推定しています。
また、「上飯塚城」には「下之城」同様、定着した城主が見当たらないのは、和田氏の直轄地だったのだろうと言っています。
なかなか見所の多い飯塚町です。
みなさんも、ぜひお出掛けを。
【三祀神・天王様・内町堰】