2013年11月10日

高崎の絹遺跡(第二話)

前回、「高崎の絹遺跡」を書きながら、グンブロ仲間だった捨蚕(すてご)さんの「踏切シリーズ」で、「紡績踏切」ってのが紹介されてたのを思い出しました。

これも、立派な「高崎の絹遺跡」じゃないか、ということで行ってみました。

高崎の絹遺跡(第二話)場所は、「高崎商科大学付属高校並榎キャンバス」を左手に見て、北へ200m行ったところです。

高崎の絹遺跡(第二話)



かつては、そのキャンバスを含む踏切手前の一帯が、「上州絹糸紡績」の敷地だったのです。
余談ですが、上掲の地図を見ると、北高崎駅の北東には「碓氷社」、左下の歌川町には「丸万製絲」というのが見えます。

高崎の絹遺跡(第二話)←高崎駅東には「小口組製糸」、西口の一等地にはやはり「碓氷社」とあります。

「碓氷社」というと安中というイメージが強いですが、明治三十五年(1902)には既に高崎に進出していて、八島町「高崎分工場」を開設しています。

明治十一年(1878)安中市原市に設立された「碓氷社」は、明治三十年代に大きく所属組合区域を拡大したために、本社がその区域の西端に位置してしまい不便になってきていました。
そこで、県下の中央に位置し、鉄道や道路が四通八達している商業都市・高崎に進出してきたのです。

進出当初は「碓氷社高崎分工場」でしたが、昭和五年(1930)には原市に代わって「本社工場」に昇格します。
さらに、翌昭和六年(1931)には飯塚町「本社直営工場」を新設しました。
当時の高崎は、一大蚕糸産業都市だったのです。

高崎の絹遺跡(第二話)さて、「紡績踏切」の由来となる「上州絹糸紡績」に話を戻しましょう。

「上州絹糸紡績」の前身は、大正六年(1917)に井上保三郎氏ら「高崎板紙会社」の関係者が主体となって設立した「群馬紡績」で、彼らはさらに、大正九年(1920)「群馬紡績」を吸収合併する形で、「上州絹糸紡績」を設立します。

しかし、第一次世界大戦後の不況や関東大震災、さらに昭和の蚕糸恐慌で大打撃を受け、昭和六年(1931)に社名を「上毛絹糸紡績」と改称し、昭和九年(1934)には人絹製造会社「日本人造繊維」の系列下に入ります。
冒頭に掲載した昭和九年の地図には、かろうじて「上州絹糸紡績」の名が残っていたことになります。

その後、世は化学繊維の時代になり、「日本人造繊維」も大手の「日本レイヨン」に合併され、「上毛絹糸紡績」「日本レイヨン高崎工場」となります。

高崎の絹遺跡(第二話)そして、戦争が激化してきた昭和十八年(1943)には、軍需産業の「住友通信工業」(日本電気)へ売却され、「紡績」の名は踏切に残るのみとなったのです。
地図では、「東部通信工業」となっている。

高崎の絹遺跡(第二話)今、旧「東部通信工業」のノスタルジックな事務所棟は、「高崎商科大学付属高校」の部室兼物置として使われています。→
高崎の絹遺跡(第二話)


←その北側は、一時、材木商「研屋」(とぎや)の材木置き場となっていましたが、現在はプレカット工場となり、同じ敷地内には関連企業「美山観光バス」の車庫があります。

高崎の絹遺跡(第二話)実は、その車庫があった所には、「上州絹糸紡績」時代に使っていたと思われる、煉瓦倉庫が2棟あったのです。→
(Yahoo!地図より)

老朽化が進んで崩れそうになっていたので4,5年前に解体したというお話しでしたが、もし残っていれば、「紡績踏切」とともに立派な「高崎の絹遺跡」に登録されていたことでしょう。

(参考図書:「新編高崎市史 通史編4」)


【紡績踏切】
高崎の絹遺跡(第二話)





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Posted by 迷道院高崎 at 22:15
Comments(8)高崎の絹遺跡
この記事へのコメント
捨蚕さんのお名前、懐かしいですね。

碓氷社は安中の会社だとばかり思っていましたが、高崎にも進出していたのですね。
高崎は一大蚕糸産業都市だったのですか・・・はじめて知りました。
明治初期には日本からの輸出額の半分が生糸で、さらにその3分の1が群馬県産だったそうですから、その流れが地域を動かす原動力となって、群馬の近代化を支えていたのでしょうね。
Posted by 風子風子  at 2013年11月11日 09:52
>風子さん

生糸の輸出港・横浜との関係も強く、その取引のための銀行も高崎には早い時期からたくさん開設されていて、一大金融都市でもあったんですね。

そんな高崎が、「群馬の絹遺産群」に4つしか入ってないというのは、悔しくて、悔しくて。
ま、目に見えるものが残ってないのですから、仕方ないんですけど。
スクラップ&ビルドの大好きな市民性が、今、しっぺ返しを受けているのでしょうね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年11月11日 19:52
昔は自動車通勤が無かったので工場の立地が駅前、駅近なのですが、正面口(西口)のほぼ真ん前に本社工場をうち建てることが出来た碓氷社は別格と言うか大変力があったのでしょうね。


JRの場合は踏切名に旧町名、字名、街道名、旧施設名がそのまま残っていて興味深いです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年11月11日 20:05
>ふれあい街歩きさん

明治30年の地図を見ると、高崎駅西口の碓氷社ができたところは、「鉄道馬車会社」と「上野鉄道会社」(後の上信電鉄)との間で、空き地になっていますね。

碓氷社は、養蚕農家を組合員とする組合製糸で、村毎に所属組合を設けたり、組合員に生活・経営資金を貸してくれるという仕組みがうまくいって、規模を大きくしていったようです。

JRは、踏切名と同じように、特徴あった駅舎も残してくれたらよかったのにと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年11月11日 21:49
流れに逆らわず。

養蚕、繭、生糸、繊維、化学、電気、電子、流通
情報、などに時代変化に上手く対応できる人、企業が残り、称賛され、又は淘汰去れる様ですが、先人の知恵、勇気、決断が有り其れを遺し、維持する事が、最も大切と思うのは、私だけでしょうか?

その事を、考える事自体が無く成って往き着く所は、最早既に時代がそうなのか?
Posted by wasada49  at 2013年11月11日 22:25
>wasada49さん

そういうことなんでしょうね。

時代時代で、変化していくことは必要なことだと思います。
ただその時に、どのくらい先を見越せるかがカギになるのでしょう。
「歴史は繰り返す」ということであれば、過去の歴史を見えるように残しておきながら、その時代に合わせて変えていくのが、賢いやり方だと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年11月12日 17:07
>迷道院高崎さん


>JRは、踏切名と同じように、特徴あった駅舎も残してくれたらよかったのにと思います。


全くそう思います。
最近もJRの駅ではありませんが、新伊勢崎駅の明治に建てられた貴重な駅舎が高架化で消えてしまいました。

今は高校の部室で使われている事務棟も、写真で見ると明治か大正期の洋館の様に見受けられます。
末長く保存されれば良いのですが。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年11月13日 18:33
>ふれあい街歩きさん

単なる懐古趣味だと言われることもありますが、昔のものが残っているところに人が集まるのは確かです。

川越の菓子屋横丁で、20代くらいのカップルが「懐かし~!」って言ってるのを見ると、普遍の感覚だと思います。

活かさない手はないですよねー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年11月13日 20:40
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