前回、「高崎の絹遺跡」を書きながら、グンブロ仲間だった捨蚕(すてご)さんの「踏切シリーズ」で、「紡績踏切」ってのが紹介されてたのを思い出しました。
これも、立派な「高崎の絹遺跡」じゃないか、ということで行ってみました。
場所は、「高崎商科大学付属高校並榎キャンバス」を左手に見て、北へ200m行ったところです。
かつては、そのキャンバスを含む踏切手前の一帯が、「上州絹糸紡績」の敷地だったのです。
余談ですが、上掲の地図を見ると、北高崎駅の北東には「碓氷社」、左下の歌川町には「丸万製絲」というのが見えます。
←高崎駅東には「小口組製糸」、西口の一等地にはやはり「碓氷社」とあります。
「碓氷社」というと安中というイメージが強いですが、明治三十五年(1902)には既に高崎に進出していて、八島町に「高崎分工場」を開設しています。
明治十一年(1878)安中市原市に設立された「碓氷社」は、明治三十年代に大きく所属組合区域を拡大したために、本社がその区域の西端に位置してしまい不便になってきていました。
そこで、県下の中央に位置し、鉄道や道路が四通八達している商業都市・高崎に進出してきたのです。
進出当初は「碓氷社高崎分工場」でしたが、昭和五年(1930)には原市に代わって「本社工場」に昇格します。
さらに、翌昭和六年(1931)には飯塚町に「本社直営工場」を新設しました。
当時の高崎は、一大蚕糸産業都市だったのです。
さて、「紡績踏切」の由来となる「上州絹糸紡績」に話を戻しましょう。
「上州絹糸紡績」の前身は、大正六年(1917)に井上保三郎氏ら「高崎板紙会社」の関係者が主体となって設立した「群馬紡績」で、彼らはさらに、大正九年(1920)「群馬紡績」を吸収合併する形で、「上州絹糸紡績」を設立します。
しかし、第一次世界大戦後の不況や関東大震災、さらに昭和の蚕糸恐慌で大打撃を受け、昭和六年(1931)に社名を「上毛絹糸紡績」と改称し、昭和九年(1934)には人絹製造会社「日本人造繊維」の系列下に入ります。
冒頭に掲載した昭和九年の地図には、かろうじて「上州絹糸紡績」の名が残っていたことになります。
その後、世は化学繊維の時代になり、「日本人造繊維」も大手の「日本レイヨン」に合併され、「上毛絹糸紡績」は「日本レイヨン高崎工場」となります。
そして、戦争が激化してきた昭和十八年(1943)には、軍需産業の「住友通信工業」※(日本電気)へ売却され、「紡績」の名は踏切に残るのみとなったのです。
今、旧「東部通信工業」のノスタルジックな事務所棟は、「高崎商科大学付属高校」の部室兼物置として使われています。→
←その北側は、一時、材木商「研屋」(とぎや)の材木置き場となっていましたが、現在はプレカット工場となり、同じ敷地内には関連企業「美山観光バス」の車庫があります。
実は、その車庫があった所には、「上州絹糸紡績」時代に使っていたと思われる、煉瓦倉庫が2棟あったのです。→
老朽化が進んで崩れそうになっていたので4,5年前に解体したというお話しでしたが、もし残っていれば、「紡績踏切」とともに立派な「高崎の絹遺跡」に登録されていたことでしょう。
これも、立派な「高崎の絹遺跡」じゃないか、ということで行ってみました。
場所は、「高崎商科大学付属高校並榎キャンバス」を左手に見て、北へ200m行ったところです。
かつては、そのキャンバスを含む踏切手前の一帯が、「上州絹糸紡績」の敷地だったのです。
余談ですが、上掲の地図を見ると、北高崎駅の北東には「碓氷社」、左下の歌川町には「丸万製絲」というのが見えます。
←高崎駅東には「小口組製糸」、西口の一等地にはやはり「碓氷社」とあります。
「碓氷社」というと安中というイメージが強いですが、明治三十五年(1902)には既に高崎に進出していて、八島町に「高崎分工場」を開設しています。
明治十一年(1878)安中市原市に設立された「碓氷社」は、明治三十年代に大きく所属組合区域を拡大したために、本社がその区域の西端に位置してしまい不便になってきていました。
そこで、県下の中央に位置し、鉄道や道路が四通八達している商業都市・高崎に進出してきたのです。
進出当初は「碓氷社高崎分工場」でしたが、昭和五年(1930)には原市に代わって「本社工場」に昇格します。
さらに、翌昭和六年(1931)には飯塚町に「本社直営工場」を新設しました。
当時の高崎は、一大蚕糸産業都市だったのです。
さて、「紡績踏切」の由来となる「上州絹糸紡績」に話を戻しましょう。
「上州絹糸紡績」の前身は、大正六年(1917)に井上保三郎氏ら「高崎板紙会社」の関係者が主体となって設立した「群馬紡績」で、彼らはさらに、大正九年(1920)「群馬紡績」を吸収合併する形で、「上州絹糸紡績」を設立します。
しかし、第一次世界大戦後の不況や関東大震災、さらに昭和の蚕糸恐慌で大打撃を受け、昭和六年(1931)に社名を「上毛絹糸紡績」と改称し、昭和九年(1934)には人絹製造会社「日本人造繊維」の系列下に入ります。
冒頭に掲載した昭和九年の地図には、かろうじて「上州絹糸紡績」の名が残っていたことになります。
その後、世は化学繊維の時代になり、「日本人造繊維」も大手の「日本レイヨン」に合併され、「上毛絹糸紡績」は「日本レイヨン高崎工場」となります。
そして、戦争が激化してきた昭和十八年(1943)には、軍需産業の「住友通信工業」※(日本電気)へ売却され、「紡績」の名は踏切に残るのみとなったのです。
※ | 地図では、「東部通信工業」となっている。 |
今、旧「東部通信工業」のノスタルジックな事務所棟は、「高崎商科大学付属高校」の部室兼物置として使われています。→
←その北側は、一時、材木商「研屋」(とぎや)の材木置き場となっていましたが、現在はプレカット工場となり、同じ敷地内には関連企業「美山観光バス」の車庫があります。
実は、その車庫があった所には、「上州絹糸紡績」時代に使っていたと思われる、煉瓦倉庫が2棟あったのです。→
(Yahoo!地図より)
老朽化が進んで崩れそうになっていたので4,5年前に解体したというお話しでしたが、もし残っていれば、「紡績踏切」とともに立派な「高崎の絹遺跡」に登録されていたことでしょう。
(参考図書:「新編高崎市史 通史編4」)
【紡績踏切】