前回の記事で、取り壊し中の「本丸東虎口(こぐち)」の写真がありました。
資料館には、その「南櫓」と「北櫓」が売られて行った先の写真も展示されていました。
1棟わずか6円(米1俵が2円弱の時代です。)で売られていった先は、上田市北郊の上田遊郭でした。
2つの櫓は合体されて、「錦秋楼」と「満豊楼」という娼妓楼になりました。
部屋数は14程度、娼妓は14、5人、芸者や仲居を含めると22、3人が働いていたとか。
昭和五年(1930)頃には廃業となり、建物は上田市へ寄贈の申し出もありましたが、移築に多額の費用が掛かることから、ずっとそのままになっていたそうです。
ところが昭和十六年(1941)になって、東京の高級料亭・目黒雅叙園へ売却されるという話が持ち上がりました。
このことが新聞紙上に掲載されると、市民の間から「上田城の櫓がよそへ移されるのは忍び難い。買い戻して元の城跡に復元したい。」という声が起きます。
その声を受けて、昭和十七年(1942)に発足したのが、「上田城保存会」です。
市長を会長に、副会長には商工会議所副会頭を据え、市議・区長・有識者をメンバーとする、文字通り市を挙げての組織です。(うらやましい!)
保存会は銀行からの借入金で楼を買い取り、移築費を含むすべての経費を寄付金で賄う計画を立てます。
そして昭和十八年(1943)、ついに「南櫓」「北櫓」の復元に向けて、娼妓楼の解体が始まります。
移築・復元工事の始まった「南櫓」と「北櫓」は、翌昭和十九年(1944)三月に上棟式を迎えますが、時は太平洋戦争末期。
戦局の悪化により工事は中断されてしまいます。
工事が再開されるのは、戦後の昭和二十三年(1948)でした。
「上田城保存会」も再発足され、再開された募金活動で集まった浄財は739,300円だったそうです。
そして昭和二十四年(1949)六月、ついに、市民の念願であった「南櫓」「北櫓」の復元が成就します。(嬉しかったろうなー。)
しかし、「南櫓」と「北櫓」をつなぐ「櫓門」の復元は、それからさらに45年の時が必要でした。
平成二年(1990)に策定された「史跡上田城跡整備基本計画」に基づいて、平成二年(1990)から発掘調査が始められ、平成五年(1993)着工、完成は平成六年(1994)のことでした。
総工費3億3千990万円だそうです。
この「東虎口櫓門」復元を目指して昭和五十九年(1984)に発足したのが、「上田・城下町活性会」です。
(この会のHP、あるグンブロガーの方の言い回しに何となく似てるんですが、気のせいでしょうか。)
「上田・城下町活性会」は、櫓門の復元が実現した今も、上田城を中心とした観光文化の振興を図るために活動しています。
そのひとつが、全部で7つあったという上田城の櫓の、残り4つの復元です。
また、城下町の町名や歴史などが書かれた高札を24ヶ所設置し、毎年、高札を巡りながらクイズを解く「スタンプラリー」を実施しています。
そんな民間の活動に、上田市役所も一緒になって活動しています。
「上田城復元プロジェクト」を立ち上げてふるさと納税を呼びかけたり、櫓復元のための古写真や絵図の提供を市民に呼びかけています。
官民一体となった町づくり、わが高崎市も大いに真似たいところであります。
資料館には、その「南櫓」と「北櫓」が売られて行った先の写真も展示されていました。
1棟わずか6円(米1俵が2円弱の時代です。)で売られていった先は、上田市北郊の上田遊郭でした。
2つの櫓は合体されて、「錦秋楼」と「満豊楼」という娼妓楼になりました。
部屋数は14程度、娼妓は14、5人、芸者や仲居を含めると22、3人が働いていたとか。
昭和五年(1930)頃には廃業となり、建物は上田市へ寄贈の申し出もありましたが、移築に多額の費用が掛かることから、ずっとそのままになっていたそうです。
ところが昭和十六年(1941)になって、東京の高級料亭・目黒雅叙園へ売却されるという話が持ち上がりました。
このことが新聞紙上に掲載されると、市民の間から「上田城の櫓がよそへ移されるのは忍び難い。買い戻して元の城跡に復元したい。」という声が起きます。
その声を受けて、昭和十七年(1942)に発足したのが、「上田城保存会」です。
市長を会長に、副会長には商工会議所副会頭を据え、市議・区長・有識者をメンバーとする、文字通り市を挙げての組織です。(うらやましい!)
保存会は銀行からの借入金で楼を買い取り、移築費を含むすべての経費を寄付金で賄う計画を立てます。
そして昭和十八年(1943)、ついに「南櫓」「北櫓」の復元に向けて、娼妓楼の解体が始まります。
移築・復元工事の始まった「南櫓」と「北櫓」は、翌昭和十九年(1944)三月に上棟式を迎えますが、時は太平洋戦争末期。
戦局の悪化により工事は中断されてしまいます。
工事が再開されるのは、戦後の昭和二十三年(1948)でした。
「上田城保存会」も再発足され、再開された募金活動で集まった浄財は739,300円だったそうです。
そして昭和二十四年(1949)六月、ついに、市民の念願であった「南櫓」「北櫓」の復元が成就します。(嬉しかったろうなー。)
しかし、「南櫓」と「北櫓」をつなぐ「櫓門」の復元は、それからさらに45年の時が必要でした。
平成二年(1990)に策定された「史跡上田城跡整備基本計画」に基づいて、平成二年(1990)から発掘調査が始められ、平成五年(1993)着工、完成は平成六年(1994)のことでした。
総工費3億3千990万円だそうです。
この「東虎口櫓門」復元を目指して昭和五十九年(1984)に発足したのが、「上田・城下町活性会」です。
(この会のHP、あるグンブロガーの方の言い回しに何となく似てるんですが、気のせいでしょうか。)
「上田・城下町活性会」は、櫓門の復元が実現した今も、上田城を中心とした観光文化の振興を図るために活動しています。
そのひとつが、全部で7つあったという上田城の櫓の、残り4つの復元です。
また、城下町の町名や歴史などが書かれた高札を24ヶ所設置し、毎年、高札を巡りながらクイズを解く「スタンプラリー」を実施しています。
そんな民間の活動に、上田市役所も一緒になって活動しています。
「上田城復元プロジェクト」を立ち上げてふるさと納税を呼びかけたり、櫓復元のための古写真や絵図の提供を市民に呼びかけています。
官民一体となった町づくり、わが高崎市も大いに真似たいところであります。
(参考図書:「広報うえだ 2010.11.1号」)