2011年11月26日

上田城を見てきました(2)

前回の記事で、取り壊し中の「本丸東虎口(こぐち)」の写真がありました。
資料館には、その「南櫓」「北櫓」が売られて行った先の写真も展示されていました。
上田城を見てきました(2)1棟わずか6円(米1俵が2円弱の時代です。)で売られていった先は、上田市北郊の上田遊郭でした。

2つの櫓は合体されて、「錦秋楼」「満豊楼」という娼妓楼になりました。

部屋数は14程度、娼妓は14、5人、芸者や仲居を含めると22、3人が働いていたとか。

昭和五年(1930)頃には廃業となり、建物は上田市へ寄贈の申し出もありましたが、移築に多額の費用が掛かることから、ずっとそのままになっていたそうです。

ところが昭和十六年(1941)になって、東京の高級料亭・目黒雅叙園へ売却されるという話が持ち上がりました。
このことが新聞紙上に掲載されると、市民の間から「上田城の櫓がよそへ移されるのは忍び難い。買い戻して元の城跡に復元したい。」という声が起きます。

その声を受けて、昭和十七年(1942)に発足したのが、「上田城保存会」です。
市長を会長に、副会長には商工会議所副会頭を据え、市議・区長・有識者をメンバーとする、文字通り市を挙げての組織です。(うらやましい!)

上田城を見てきました(2)保存会は銀行からの借入金でを買い取り、移築費を含むすべての経費を寄付金で賄う計画を立てます。

そして昭和十八年(1943)、ついに「南櫓」「北櫓」の復元に向けて、娼妓楼の解体が始まります。

上田城を見てきました(2)移築・復元工事の始まった「南櫓」「北櫓」は、翌昭和十九年(1944)三月に上棟式を迎えますが、時は太平洋戦争末期。

戦局の悪化により工事は中断されてしまいます。
上田城を見てきました(2)
工事が再開されるのは、戦後の昭和二十三年(1948)でした。

「上田城保存会」も再発足され、再開された募金活動で集まった浄財は739,300円だったそうです。

そして昭和二十四年(1949)六月、ついに、市民の念願であった「南櫓」「北櫓」の復元が成就します。(嬉しかったろうなー。)

しかし、「南櫓」「北櫓」をつなぐ「櫓門」の復元は、それからさらに45年の時が必要でした。

上田城を見てきました(2)平成二年(1990)に策定された「史跡上田城跡整備基本計画」に基づいて、平成二年(1990)から発掘調査が始められ、平成五年(1993)着工、完成は平成六年(1994)のことでした。

総工費3億3千990万円だそうです。

この「東虎口櫓門」復元を目指して昭和五十九年(1984)に発足したのが、「上田・城下町活性会」です。
この会のHP、あるグンブロガーの方の言い回しに何となく似てるんですが、気のせいでしょうか。

「上田・城下町活性会」は、櫓門の復元が実現した今も、上田城を中心とした観光文化の振興を図るために活動しています。
そのひとつが、全部で7つあったという上田城の、残り4つの復元です。
また、城下町の町名や歴史などが書かれた高札を24ヶ所設置し、毎年、高札を巡りながらクイズを解く「スタンプラリー」を実施しています。

そんな民間の活動に、上田市役所も一緒になって活動しています。
「上田城復元プロジェクト」を立ち上げてふるさと納税を呼びかけたり、復元のための古写真や絵図の提供を市民に呼びかけています。

官民一体となった町づくり、わが高崎市も大いに真似たいところであります。

(参考図書:「広報うえだ 2010.11.1号」)





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Posted by 迷道院高崎 at 17:46
Comments(4)◆出・たかさき
この記事へのコメント
こんにちは。

上田城の記事を拝見しましたので、
やはりココはコメントさせて頂こうかと思いました。

上田城と言えばやはり、真田昌幸ですよネ。
その昔、丹波哲郎さんが演じた「安房守」は
トテモ印象深く記憶しております。

迷道院高崎さん、実はワタクシ
先月から仕事の関係で 上田市観光課と高崎市観光課との交流を促進させる活動をしております。
上田市の観光情報が高崎市で、
高崎市の観光情報が上田市で、毎月周知出来るようになりました。

この小さな「キッカケ」が どうのように
「変化・変態」していくか・・・

しばらく見守って頂くと有難いです・・・
Posted by はるなのフルーツ  at 2011年11月26日 20:03
>はるなのフルーツさん

あ、やはり当たらずとも遠からず。
はるなのフルーツさんが一枚かんでたんですね。

上田市と高崎市の観光情報交流ですか!
嬉しいですねー!
こういうのを望んでました。
高崎市と関係の深い、金沢市・彦根市・横須賀市・会津若松市などともできるといいですよね。

期待に胸ふくらませながら、ありがたく見守らせて頂きます。
よろしくお願いいたします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年11月27日 18:18
この秋
五万石騒動研究会では
信州の青木村へ研修旅行に
一泊で行ってきました。

帰りにこの上田城の見学をして
来ました。
お堀の深いこと
敷地が広いことに
感心して来ました。

ツーショット
ぼかし無しの方が
良かったのになぁ・・・

実は
長男の嫁が会津若松でして
既にうちでは人間交流をしていますが
会津若松と高崎は
歴史的にどんな繋がりが
会ったのでしたっけ?

新島襄の妻が
会津若松の人で
NHKのドラマの主人公に
なるという話ですよね。
Posted by いちじん  at 2011年11月28日 12:07
>いちじんさん

うっかりして、櫓門だけ撮ってくるのを忘れちゃいました(^^ゞ
ぼかし無しだと、検閲に引っかかるといけないので。

倉渕村と高崎が合併したので、会津と深い関係ができました。
と言えばもうお察しの通り、小栗上野介です。

上野介斬首の後、身重の道子夫人と護衛の小栗歩兵達は、会津への長い逃避行を続けます。
小栗歩兵の中には、上野介の仇を討つとして会津兵と共に西軍(官軍とは呼ばなかったようです)と戦い、命を落とした者もいます。

そうですね、新島襄の奥さんも会津の猛者(?)でしたね。
会津つながりで、その次は小栗上野介を大河ドラマにしたいものです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年11月28日 19:23
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