まだ紅葉には早い平日の長野県小布施町ですが、大勢の観光客を集めていました。
小布施というと昔の町並みを修復した町づくりとして有名ですが、私は、町の一角にあるこの石に小布施の町づくりの精神の全てを感じました。
この石は「市神」(いちがみ)といい、この地で行われていた「六斉市」の守護神で、取引の平穏無事を願うものだったんだそうです。
長らく町外れの皇大神社境内に移されていましたが、町並み修復の一環として、元あった場所近くに戻したといいます。(「市神」説明看板)
ここに一冊の本があります。
著者は、東京理科大学理工学部建築学科教授であり、小布施町まちづくり研究所の所長でもある川向正人(かわむかい・まさと)氏です。
小布施の「町並み修景事業」は昭和五十七年(1982)からスタートしていますが、当初からその事業の研究に関わってきた東京理科大学と共同出資をして、平成十七年(2005)、役場の中につくったのが「小布施町まちづくり研究所」です。
小布施では「町並み保存」という言葉を使わず、「町並み修景」と呼んでいます。
川向氏によれば、
のだそうです。
さらに、
と言います。
町なかでは、事業がスタートしてから30年近くたった今でも、修景のための曳き家が行われていました。

公共事業のように見えますが、施主は民間の伊那食品工業(株)です。
しかも、商工会青年部とも、ちゃんと連携が取れています。
時の経過の中で到達した古建築の自然な状態を、可能な限り残すというのも修景の考え方です。
いま修復中の建物の土壁も、全面塗替えせずに、使える部分はそのまま残すことで、時間の重なりとして自然な風合いを醸し出すようにしているのだそうです。
一瞬、日帰り温泉かと間違えそうなここは、長野信用金庫小布施支店です。
この奥には、小布施の修景事業の端緒とも言える、高井鴻山の書斎「翛然楼」(ゆうぜんろう:現高井鴻山記念館)があって、町がこれを買い取って一般公開する構想になっていました。
しかし、この信金の建物があるために入口は狭く、駐車スペースも足らないという問題が起こりました。
地権者の市村次夫氏は、このまま行政主導の事業を容認すると、駐車場確保のために街並みを破壊するかもしれないと懸念したそうです。
そこで市村氏は行政、信金、そして地域住民に集まってもらい、町並みを維持しながらこの一角を歴史文化ゾーンとして整備する方法を検討したのだといいます。
この動きが、後に、町内に住む30代から50代までの世代に声をかけて結成される、住民中心の「まちづくり研究会」に繋がっていったのではないかと思います。
研究会メンバーは異口同音に、こう言うそうです。
「助成金などが一切受けられなくても、自分たちの手で、歴史文化を実感できる住環境の整備を進めたい。」
そんな小布施の町で目に留まった、ちょっといい風景です。
小布施の修景事業は、官・学・民の良きリーダーに恵まれたことが成功のカギだったように思います。
しかし最初の一歩は、昭和四十四年(1969)に就任した市村邦夫町長の、「歴史を大切にし、人々の記憶や絆を大切にして欲しい。」という思いでした。
わが高崎も、まずは行政のリーダーが呼び掛けて、官・学・民で「小布施流町づくり」を真似ぶところから始めてはどうでしょうか。
川向正人氏著「小布施まちづくりの奇跡」は、そのための良い教科書になるはずです。


この石は「市神」(いちがみ)といい、この地で行われていた「六斉市」の守護神で、取引の平穏無事を願うものだったんだそうです。
長らく町外れの皇大神社境内に移されていましたが、町並み修復の一環として、元あった場所近くに戻したといいます。(「市神」説明看板)

著者は、東京理科大学理工学部建築学科教授であり、小布施町まちづくり研究所の所長でもある川向正人(かわむかい・まさと)氏です。
小布施の「町並み修景事業」は昭和五十七年(1982)からスタートしていますが、当初からその事業の研究に関わってきた東京理科大学と共同出資をして、平成十七年(2005)、役場の中につくったのが「小布施町まちづくり研究所」です。
小布施では「町並み保存」という言葉を使わず、「町並み修景」と呼んでいます。
川向氏によれば、
「 | 町並み保存とは、歴史的な様式形態の保存・継承が重視される。 |
それに対して町並み修景は、その土地の持つ雰囲気や全体の景観を重視する。」 |
さらに、
「 | 保存事業では、歴史的建造物の様式特徴を正確に復元・修理しようとするため、個々の家屋が孤立した単なる展示品になる。 |
一方、修景事業は全体の景観を修復するために、ときには曳き家で位置を変え、解体して移築し、あるいは新築する場合もある。」 |


公共事業のように見えますが、施主は民間の伊那食品工業(株)です。
しかも、商工会青年部とも、ちゃんと連携が取れています。

いま修復中の建物の土壁も、全面塗替えせずに、使える部分はそのまま残すことで、時間の重なりとして自然な風合いを醸し出すようにしているのだそうです。

この奥には、小布施の修景事業の端緒とも言える、高井鴻山の書斎「翛然楼」(ゆうぜんろう:現高井鴻山記念館)があって、町がこれを買い取って一般公開する構想になっていました。
しかし、この信金の建物があるために入口は狭く、駐車スペースも足らないという問題が起こりました。
地権者の市村次夫氏は、このまま行政主導の事業を容認すると、駐車場確保のために街並みを破壊するかもしれないと懸念したそうです。
そこで市村氏は行政、信金、そして地域住民に集まってもらい、町並みを維持しながらこの一角を歴史文化ゾーンとして整備する方法を検討したのだといいます。
この動きが、後に、町内に住む30代から50代までの世代に声をかけて結成される、住民中心の「まちづくり研究会」に繋がっていったのではないかと思います。
研究会メンバーは異口同音に、こう言うそうです。
「助成金などが一切受けられなくても、自分たちの手で、歴史文化を実感できる住環境の整備を進めたい。」
そんな小布施の町で目に留まった、ちょっといい風景です。
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普通は金属の側溝の蓋も、小布施では栗の木で出来ています。 | 小布施には木陰やベンチが沢山あって、涼しく街歩きが出来ます。 | |||
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町角には、小布施に伝わる民話の紙芝居が立っています。 | ||||
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栗庵風味堂のCONVOY88です。 北斎の「女浪」と「龍」が描かれています。 |
小布施の修景事業は、官・学・民の良きリーダーに恵まれたことが成功のカギだったように思います。
しかし最初の一歩は、昭和四十四年(1969)に就任した市村邦夫町長の、「歴史を大切にし、人々の記憶や絆を大切にして欲しい。」という思いでした。
わが高崎も、まずは行政のリーダーが呼び掛けて、官・学・民で「小布施流町づくり」を真似ぶところから始めてはどうでしょうか。
川向正人氏著「小布施まちづくりの奇跡」は、そのための良い教科書になるはずです。
