下室田町の県道29号(あら町-下室田線)沿いに、「みなとや」「ミヤシタ」というひらがなとカタカナのお店が並んでいますが、その道向こうに北へ入る道があります。
両側に石垣があって、ちょっと雰囲気のある坂道です。
その石垣の所に史跡看板が建っています。
なるほど、それでアパートの名称が「ハイツ堀之内」ですか。
室田村代官の中島氏について、「室田町誌」にはこう書かれています。
坂を上り詰めた所に、代官屋敷を偲ばせるような立派なお宅がありました。
その東側は、ひろーい駐車場になっています。
駐車場の北も、ひろーい草地です。
草地の北西隅に、何やらお社が見えます。
立派なお社なんですが、何をお祀りしてるのでしょう。
お稲荷さんの他は、何の神様か分かりません。
お社側から見てみると、先ほどの代官屋敷らしいお宅につながっているように見えます。
あー、あのお宅の屋敷神様なんですね、きっと。
駐車場の北方に見える山が、「松山城跡」です。
次回、行ってみると致しましょう。
両側に石垣があって、ちょっと雰囲気のある坂道です。
その石垣の所に史跡看板が建っています。
なるほど、それでアパートの名称が「ハイツ堀之内」ですか。
室田村代官の中島氏について、「室田町誌」にはこう書かれています。
「 | 中島新左衛門は永禄四年(推定1561)下室田の豪家に生まれ、萬治二年(1659)九月二十五日室田宿に歿、九十八才。 |
安中城主井伊直勝の臣、室田宿安中藩領の代官に任じていましたが、たまたま城主直勝の側室お岩の方懐妊を預り、お岩の方男子(直之、後直好)出産後は、正室や側室に男子が生まれなかったので世継ぎとして三才までこれを養育しています。 | |
寛永九年(1632)直好は安中藩を襲封していますが、中島新左衛門は養育の功により直勝公より二百五十石を賜っています。(略) | |
直好は正保二年(1645)六月、三河国吉良西尾へ転封になっていますが、中島新左衛門は四男を伴ってこれに従い、直好の萬治二年(1659)一月の遠州掛川への転封にも従っています。(略) | |
中島新左衛門の子孫は代々大森神社の総代人となっています。」 |
坂を上り詰めた所に、代官屋敷を偲ばせるような立派なお宅がありました。
その東側は、ひろーい駐車場になっています。
駐車場の北も、ひろーい草地です。
草地の北西隅に、何やらお社が見えます。
立派なお社なんですが、何をお祀りしてるのでしょう。
お稲荷さんの他は、何の神様か分かりません。
お社側から見てみると、先ほどの代官屋敷らしいお宅につながっているように見えます。
あー、あのお宅の屋敷神様なんですね、きっと。
駐車場の北方に見える山が、「松山城跡」です。
次回、行ってみると致しましょう。
【松山城居館跡(堀之内)】