榛名消防団第四分団脇を入ったどん突きが、「大福寺」です。
史跡看板は、この寺に建つ三基の「庚申塔」について書かれています。
その三基の「庚申塔」がこれらです。
う~ん。
何か物足らないので、「大福寺」について調べてみました。
「榛名町誌 通史編下」に、こう書かれています。
う~~ん。
まだ物足らなくて、「室田町誌」も見てみました。
すると、興味深いことが書いてあるじゃありませんか。
その口碑伝説の項には、こう書かれています。
「大福寺」の住職が檀徒を引き抜かれた恨みから、死して山上の「大福塚」から敵を睨み倒しているというのです。
「大福塚」へ行ってみたくて仕方なくなりました。
「大福寺」でお聞きすれば分かると思ったのですが、どうやらここは無住寺のようです。
ご近所の方にお聞きしましたが、「大福塚?聞いたことないねぇ。」と言います。
しかたなく、「室田町誌」に書かれている「下室田根古屋と駒寄との境界」、「松の大木が二本」、「南面させて根古屋山上に」という記述を頼りに歩き始めましたが、この辺りどこを見ても山だらけで皆目見当がつきません。
困っていると、一軒の民家のお庭に人の姿を見つけました。
急いで声をお掛けして、「この辺に、大福塚というのがありますか?」とお尋ねすると、何と!ご存知でした。
お父様からそういうものがあるとは聞いていて、場所も大体分かるけれども、実際に見たことはないということでした。
しかも、道は藪になってて行けないんじゃないかと言います。
ところが何と!「私も興味があるから、一緒に行ってみましょう。」と、仰ってくれました。
車の助手席に乗せて頂きけっこうな距離を走って、尾根の西側登り口へやって来ました。
車を停めて急坂を登り、やや平坦な場所に出ましたが、そこで藪に阻まれ、それ以上進むことはできません。
すると、「フルーツラインの方からなら行けるかも知れない。」と、また車でぐるーっと回って下さいました。
そして入って行ったのは、「下村浄水場」の脇道でした。
500mほど行くと、右側が広場のようになっています。
松ではありませんが、大木が二本立っています。
近くに車を止めて広場に入って行くと、二本の大木の間の灌木の陰に、小さな石碑を見つけました。
前に回ると、「秀巌山二十三世 正観上人之墓」と刻まれています。
間違いありません、これが「大福塚」です。
二人して大喜びしました。
案内して頂かなかったら、絶対に辿り着けなかったでしょう。
ありがとうございました。
奇跡的な出会いをしたこの方は、宮下喜好さんと仰います。
城郭、特に山城に興味を持っていらっしゃるそうで、この辺の歴史にも大変詳しいお方でした。
「大福塚」は、地元では「だいくづか」と呼んでたそうで、初めて「だいふくづか」と分かったと喜んでらっしゃいました。
さて、「大福塚」騒動の発端となった名主・中島某の起した檀徒引き抜きの件ですが、その顛末を記した古文書が中島雅雄氏家で発見され、昭和二十八年(1953)の新聞紙上にその調査結果が掲載されます。
この新聞記事を読んで、おや?と思うところがあります。
終盤の辺りの、こんな記述です。
ん?「大福塚」の伝説とは訴訟の結果が真逆です。
はて、どちらが本当なんでしょう。
新しく建て直されたという現在の「正観上人之墓」も、「長年寺」の方角ではなく、遠く雪を頂く浅間山を望んでいます。
いまだに謎が残る「大福塚」でした。
史跡看板は、この寺に建つ三基の「庚申塔」について書かれています。
その三基の「庚申塔」がこれらです。
う~ん。
何か物足らないので、「大福寺」について調べてみました。
「榛名町誌 通史編下」に、こう書かれています。
「 | 上町の天台宗大福寺は中里見光明寺末、本尊は阿弥陀如来である。 |
寺記によれば、貞和三年(1347)に里見兵庫頭が再興した。 | |
中興の開山は僧円覚である。 | |
永正八年(1511)、住職光海の時に長野憲業(鷹留城主)が寺領として六貫五百文を寄進している。 同十八年、兵火により全焼した。」 |
う~~ん。
まだ物足らなくて、「室田町誌」も見てみました。
すると、興味深いことが書いてあるじゃありませんか。
「 | 二十三世正観上人の代、※寛文年間(1661-1672)檀徒二百戸あまり、名主某のために、長年寺に転帰するという事件がもちあがり、このため上人は江戸へ訴えたが敗れ、憤懣断食をして死に、遺言して根古屋山上に葬らしめたという。 これを大福塚という。 (口碑伝説の項参照)」 |
※ | 寛永年間(1624-1643)の誤りか? |
その口碑伝説の項には、こう書かれています。
「 | 下室田根古屋と駒寄との境界となっている丘陵に、松の大木が二本みえます(方角により一本となるので、おばけ松などと子供たちが言ってます)が、この根方を大福塚と呼んでいます。 |
この塚には次のような伝承があります。 | |
寛永年間室田村内の大福寺、松仙寺、吉祥寺、医王寺、無量院等の諸寺の檀徒が、大量長年寺檀中に転帰した事件がありました。 | |
各寺の住職は、これは名主中島某(一本長兵衛)が圧力を加えて自らの檀中(長年寺)に引き入れたものと考え、寺社奉行まで訴訟し、敗訴となっています。 | |
その時大福寺住職正観和尚は憤懣の余り、三七日の断食苦行の末、怨敵滅亡を祈願して、臨終の時「愚僧死すとも瞑目する能わず、屍は必ず南面させて根古屋山上に葬れ。彼ら寺敵を睨み倒し、しかも子孫を断たざればおかじ」と遺言。 | |
墓に入ってからも竹筒で水をささせ、生きている間は鈴を合図にならすと言って死んで行きました。」 |
「大福寺」の住職が檀徒を引き抜かれた恨みから、死して山上の「大福塚」から敵を睨み倒しているというのです。
「大福塚」へ行ってみたくて仕方なくなりました。
「大福寺」でお聞きすれば分かると思ったのですが、どうやらここは無住寺のようです。
ご近所の方にお聞きしましたが、「大福塚?聞いたことないねぇ。」と言います。
しかたなく、「室田町誌」に書かれている「下室田根古屋と駒寄との境界」、「松の大木が二本」、「南面させて根古屋山上に」という記述を頼りに歩き始めましたが、この辺りどこを見ても山だらけで皆目見当がつきません。
困っていると、一軒の民家のお庭に人の姿を見つけました。
急いで声をお掛けして、「この辺に、大福塚というのがありますか?」とお尋ねすると、何と!ご存知でした。
お父様からそういうものがあるとは聞いていて、場所も大体分かるけれども、実際に見たことはないということでした。
しかも、道は藪になってて行けないんじゃないかと言います。
ところが何と!「私も興味があるから、一緒に行ってみましょう。」と、仰ってくれました。
車の助手席に乗せて頂きけっこうな距離を走って、尾根の西側登り口へやって来ました。
車を停めて急坂を登り、やや平坦な場所に出ましたが、そこで藪に阻まれ、それ以上進むことはできません。
すると、「フルーツラインの方からなら行けるかも知れない。」と、また車でぐるーっと回って下さいました。
そして入って行ったのは、「下村浄水場」の脇道でした。
500mほど行くと、右側が広場のようになっています。
松ではありませんが、大木が二本立っています。
近くに車を止めて広場に入って行くと、二本の大木の間の灌木の陰に、小さな石碑を見つけました。
前に回ると、「秀巌山二十三世 正観上人之墓」と刻まれています。
間違いありません、これが「大福塚」です。
二人して大喜びしました。
案内して頂かなかったら、絶対に辿り着けなかったでしょう。
ありがとうございました。
奇跡的な出会いをしたこの方は、宮下喜好さんと仰います。
城郭、特に山城に興味を持っていらっしゃるそうで、この辺の歴史にも大変詳しいお方でした。
「大福塚」は、地元では「だいくづか」と呼んでたそうで、初めて「だいふくづか」と分かったと喜んでらっしゃいました。
さて、「大福塚」騒動の発端となった名主・中島某の起した檀徒引き抜きの件ですが、その顛末を記した古文書が中島雅雄氏家で発見され、昭和二十八年(1953)の新聞紙上にその調査結果が掲載されます。
この新聞記事を読んで、おや?と思うところがあります。
終盤の辺りの、こんな記述です。
「 | なお、裏書に寺社奉行の長左衛門(室田町誌では長兵衛)に対する呼び出し状があり、出張しなければ投獄するとあるところをみると、この裁判は多分真言、天台側の勝訴に終わったのであろう。」 |
ん?「大福塚」の伝説とは訴訟の結果が真逆です。
はて、どちらが本当なんでしょう。
新しく建て直されたという現在の「正観上人之墓」も、「長年寺」の方角ではなく、遠く雪を頂く浅間山を望んでいます。
いまだに謎が残る「大福塚」でした。
【大福寺】
【大福塚】