本町一・二・三丁目
商店櫛比(しっぴ)軒ならべ
新規を競ひて売出(うりいだ)す
市内第一繁昌地
商店櫛比(しっぴ)軒ならべ
新規を競ひて売出(うりいだ)す
市内第一繁昌地
現在の本町一・二・三丁目の区割りはこうなっています。
「櫛比」とは、「櫛の歯のように隙間なく並んでいる様子」を言うそうです。
明治三十七年(1904)「群馬県営業便覧」に載っている本町の商店群ですが、たしかに、びっしりと並んでいます。
その中で聞き慣れないのが「勸工塲」(かんこうば:勧工場)でしょう。
「勧工場」については、「新編高崎市史 通史編4」にこう書かれています。
「 | 第一回の内国勧業博覧会が明治十年(1877)八月に東京で開かれた。 これは各種の国際博覧会に触発され、かたわら政府の掲げる殖産興業の実をあげるために企画されたもので、上野公園を会場として開催された。 出品物の即売も行われ、好評のうちに終了したのち、残った商品を処分するため新たに陳列所を設け販売した。これが勧工場のはじまりであり、のち各地に私設勧工場が続出した。 |
高崎でも明治二十一年(1888)、本町一丁目の北側に勧工場が開店した。 これまでの伝統的な商いのかたちであった「座売り」を排除して、掛け値なく「正札販売」に徹し、取扱品目も玩具・文房具・化粧品・食料品を除く雑貨類を商う小型のデパート方式の店舗が現れたのである。 |
|
勧工場の出現は、当時の商人に衝撃を与え、商店近代化に影響を与えた。」 |
「高崎繁昌記」にイラストが載っています。
中の様子は、こんな感じでした。
「 | 店内の商品はガラスケースに揃えられ、U字形の回遊性をもたせた店舗にハイカラな雰囲気を漂わせて陳列されていた。 |
建物の持ち主がいて、出店者を募り、彼らの支払う出品料が家賃に相当した。通常、出品料は一円五十銭から二円五十銭であった。」 |
(新編高崎市史 通史編4)
出店者の一覧が「高崎繁昌記」に載っています。
建物は、明治十八年(1885)に建てられた「北部連合戸長役場」を利用したそうです。
「勧工場」の出現により、人々の買い物スタイルも変化します。
「 | これまで中流以上の家庭では買物は自宅に取り寄せて品選びをする慣習があったが、勧工場商法は、彼らをショッピングに赴かせ、陳列商品の中から自由に選んで買物したり、ウィンドーショッピングを楽しむこともできるようになった。」 |
(新編高崎市史 通史編4)
後に、新紺屋町にも「勧工場」ができましたが、大正末期になって共に廃業となったそうです。
法政大学イノベーション・マネジメント研究センター発行の「ショッピングセンターの原型・勧工場の隆盛と衰退」の中に、東京市の勧工場数の推移を表にしたものがあります。
これを見ても、大正期に向かって急速に数が減っているのが分かります。
同センターの南亮一氏は、その原因をこう考察しています。
「 | 老舗や有名店にとっては出店するほどの魅力がなかったということであろう。 勧工場は、自前で店舗を出せない弱小業者の集まりになりがちであった。 |
勧工場が誕生した当初は、陶器や美術品、最新の雑貨類など、各地の有力な手工業者などが自慢の品を出品していたが、富国強兵政策のもとで我が国の工業化、大量生産化が進むにつれて新しく生み出された工業製品のうち、あまり品質のよくないものを仕入れて勧工場で売って稼ごうとする人が増えた。 次第に「勧工場物」とは品質が悪い商品の代名詞となってしまった。 売れ行きが悪くなると価格競争が起きて価格が下落し、それが商品の質の低下に拍車をかけた。 正価販売は勧工場の特長のひとつだったはずだが、勧工場の店のなかには勝手に値引きして販売する者も現れた。 |
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店員の質も問題となった。 当時、老舗の小売店では丁稚として店で働き始めた若者に対し、年長者が商いをする上での様々な知識を伝えていた。 店舗は教育の場でもあったのである。ところが、勧工場の小さな売り場は、低賃金で雇われた者が一人で店番をすることが多く、十分な教育を受けることもないまま店を任されることが多かった。 若い店員たちは店員同士で無駄話をしたり遊ぶことが少なくなかった。 こうした店員の質の低さは人々の勧工場に対する印象を悪化させた。 |
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当然、こうした勧工場に対する評価の急速な悪化は勧工場内で商売してみようという小売業者らの意欲を削ぐことになり、館内で商売をしていた小売業者らの求心力をなくし、勧工場から有力なテナントがひとつまたひとつと抜けていった。」 |
これは東京の勧工場についての考察ですが、高崎でも似たようなことがあったのかも知れません。
思うに、勧工場自身の問題もあったでしょうが、一般商店の方も「勧工場方式」の良いところを取り入れて、人々の満足度を上げていったということもあったのではないでしょうか。
さて、その後の本町通りの変貌ぶりを見てみましょう。
【昭和三十六年(1961)の本町通り】
まだまだ櫛の歯は健在のようです。【昭和四十七年(1972)の本町通り】
まだ元気ですよ。そして現在。
【令和四年(2022)の本町通り】
仕舞屋(しもたや)が増え、空地や駐車場が増えて、櫛の歯もずいぶん欠け落ちてしまいました。再び「櫛比の町」にするには、どうしたらよいのでしょう。
「人々の満足度を上げる」、これは古今問わず、商売繁盛や町活性化の変わらぬキーワードであるのでしょうが・・・。
本町に関する過去記事はたくさんあります。
この際ですから、ずらっと挙げときますか。
お時間のある時にでもどうぞ。
◇史跡看板散歩-11 高崎の根本・本町
◇本町今昔物語(1)
◇本町今昔物語(2)
◇本町今昔 蔵探し(1)
◇本町今昔 蔵探し(2)
◇本町今昔 蔵探し(3)
◇本町今昔 蔵探し(4)
◇本町今昔 蔵探し(5)