「倉賀野山養報寺」の本堂に、「河岸観音」(かしかんのん)と呼ばれる、三十四体の仏像が安置されているそうだ。
「養報寺」のご本尊は「延命地蔵菩薩」ということだが、そこに三十四体の「河岸観音」が納まっているのには、こんな伝説があるという。
(写真:あさを社「徐徐漂たかさき」より)
~……~……~……~……~……~……~……~……
江戸時代中頃のこと、下総(千葉)行徳河岸(がし)の舟問屋常陸屋に、倉賀野まで運んで欲しいと、白髪の老人が三十四個のコモ包みを持ち込んできた。
常陸屋からその輸送を請けたのは、倉賀野河岸の舟頭惣右衛門であった。
舟が行徳を立ってその晩、惣右衛門の耳に何処からか「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」という念仏が聞こえてくる。
不思議に思った惣右衛門が舟の中を見回ってみると、その念仏は、三十四個のコモ包みから聞こえてくるのである。
これが、倉賀野河岸までの十七日間毎晩続いたので、惣右衛門はすっかり怯え、倉賀野河岸へ着くなり急いで問屋の鈴木庄右衛門の所に持ち込んだ。
ところが、半年経ってもこの荷の引き取り人が現れない。
庄右衛門が荷を開いてみると、中から出て来たのは、金ぴかの観音像三十三体と大日如来像であった。
行徳の常陸屋に問い合わせると、不思議な答えが返ってきた。
荷を依頼した老人は、舟賃を前払いしてどこかへ去ったが、荷が行徳を出たその後、江戸川河口に水死体となって浮いているのが発見されたという。
老人の身元も知れず、仏像をどこへ納めようとしたかもわからず、困った庄右衛門が養報寺に引き取ってもらったのが、この三十四体の仏像である。
人々はこれを、「河岸観音」(かしかんのん)と呼んだという。
~……~……~……~……~……~……~……~……
「徐徐漂(ぶらり)たかさき」でこの話を紹介してくれた内山信二氏によると、西上州で西国三十三札所の観音像を全部揃えて祀ってある所は、安中下野尻の正龍寺と同市下後間の北野寺ぐらいであろうという。
倉賀野には、大変な宝物が埋もれているものである。
西国三十三ヵ所巡りを、「養報寺」一ヵ所で済むとあれば、迷道院のような物ぐさにはありがたいことである。
白髪の老人を供養する意味でも、
沢山の人に拝んでもらえるようにしたいものである。
「養報寺」のご本尊は「延命地蔵菩薩」ということだが、そこに三十四体の「河岸観音」が納まっているのには、こんな伝説があるという。
(写真:あさを社「徐徐漂たかさき」より)
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江戸時代中頃のこと、下総(千葉)行徳河岸(がし)の舟問屋常陸屋に、倉賀野まで運んで欲しいと、白髪の老人が三十四個のコモ包みを持ち込んできた。
常陸屋からその輸送を請けたのは、倉賀野河岸の舟頭惣右衛門であった。
舟が行徳を立ってその晩、惣右衛門の耳に何処からか「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」という念仏が聞こえてくる。
不思議に思った惣右衛門が舟の中を見回ってみると、その念仏は、三十四個のコモ包みから聞こえてくるのである。
これが、倉賀野河岸までの十七日間毎晩続いたので、惣右衛門はすっかり怯え、倉賀野河岸へ着くなり急いで問屋の鈴木庄右衛門の所に持ち込んだ。
ところが、半年経ってもこの荷の引き取り人が現れない。
庄右衛門が荷を開いてみると、中から出て来たのは、金ぴかの観音像三十三体と大日如来像であった。
行徳の常陸屋に問い合わせると、不思議な答えが返ってきた。
荷を依頼した老人は、舟賃を前払いしてどこかへ去ったが、荷が行徳を出たその後、江戸川河口に水死体となって浮いているのが発見されたという。
老人の身元も知れず、仏像をどこへ納めようとしたかもわからず、困った庄右衛門が養報寺に引き取ってもらったのが、この三十四体の仏像である。
人々はこれを、「河岸観音」(かしかんのん)と呼んだという。
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「徐徐漂(ぶらり)たかさき」でこの話を紹介してくれた内山信二氏によると、西上州で西国三十三札所の観音像を全部揃えて祀ってある所は、安中下野尻の正龍寺と同市下後間の北野寺ぐらいであろうという。
倉賀野には、大変な宝物が埋もれているものである。
西国三十三ヵ所巡りを、「養報寺」一ヵ所で済むとあれば、迷道院のような物ぐさにはありがたいことである。
白髪の老人を供養する意味でも、
沢山の人に拝んでもらえるようにしたいものである。