京目町の「京目不動尊」です。
田島桂男氏著「高崎の地名」によると、「京目」という地名についてこう書かれています。
ということなので、ここにあったという「不動寺」は、松井田藩領の時に創建されたということになります。
お堂の中を覗いてみると、びっくりするほど立派なお不動様が祀られていました。
このお不動様について、「高崎の散歩道 第五集」に、こんなことが書かれています。
でも、見た通り、すべての箱は開けられているようですが・・・。
境内入口に、「如意輪観音」を刻んだ塔が建っています。
台座には「女人講中」、塔側面には「文政十二丑年(1829) 十月吉祥日」とあります。
「女人講」とは、二十二夜(二夜様)に行われる女衆の「月待ち」講で、そのご本尊「如意輪観音」を刻んだ塔が多いようです。
男衆の講である「二十三夜」の塔も、境内にあります。
さらには、「日待ち」塔の代表ともいえる「庚申塔」も、立派なものが建っています。
「不動寺」が、村人たちの拠り所であったことがうかがえます。
さらに、ここが修験寺であったという証が、この「役行者」(えんのぎょうじゃ)の石像でしょう。
「役行者」は、修験道の祖といわれる「役君小角」(えんくんおづぬ)という人で、空を飛ぶことができ、鬼神を自在に操れるという力を持っていたらしいです。
それが、実在の人物だというんですから、驚きです。
ほしいなぁ、そういう能力・・・。
田島桂男氏著「高崎の地名」によると、「京目」という地名についてこう書かれています。
「 | 『京目』の地名は、古くは『教免』(きょうめん)であった。 |
むかしは、神仏への信仰が人々の生活に強く根づいていて、敬神崇仏のための経費を出す共同耕作地は、年貢の対象から外されていた。 『教免』とは、仏教信仰に関わる租税免除のこと・・・(略) |
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『教免郷』は、天正年間(1573~92)には、松井田城主大道寺直宗の領地であったが、慶長十二年(1607)以降旗本(戸田氏)領となり、元禄十一年(1698)高崎藩領となった。」 |
ということなので、ここにあったという「不動寺」は、松井田藩領の時に創建されたということになります。
お堂の中を覗いてみると、びっくりするほど立派なお不動様が祀られていました。
このお不動様について、「高崎の散歩道 第五集」に、こんなことが書かれています。
「 | 古老が話してくれたところによると、この不動明王像のうしろに、あけてはならない七ツの箱があるという。 |
この箱の一つを中沢家では背負って、正月に全国を巡行した。 | |
箱をあけるとたたりがあると伝えられ、今だに中になにが入っているかわからない。」 |
でも、見た通り、すべての箱は開けられているようですが・・・。
境内入口に、「如意輪観音」を刻んだ塔が建っています。
台座には「女人講中」、塔側面には「文政十二丑年(1829) 十月吉祥日」とあります。
「女人講」とは、二十二夜(二夜様)に行われる女衆の「月待ち」講で、そのご本尊「如意輪観音」を刻んだ塔が多いようです。
男衆の講である「二十三夜」の塔も、境内にあります。
さらには、「日待ち」塔の代表ともいえる「庚申塔」も、立派なものが建っています。
「不動寺」が、村人たちの拠り所であったことがうかがえます。
さらに、ここが修験寺であったという証が、この「役行者」(えんのぎょうじゃ)の石像でしょう。
「役行者」は、修験道の祖といわれる「役君小角」(えんくんおづぬ)という人で、空を飛ぶことができ、鬼神を自在に操れるという力を持っていたらしいです。
それが、実在の人物だというんですから、驚きです。
ほしいなぁ、そういう能力・・・。
【京目不動尊】