2013年03月17日

惣兵衛の梅

今日は「八重の桜と小栗の椿」をちょっとお休みして、代わりに「惣兵衛(そうべえ)の梅」のお話しをいたします。

惣兵衛の梅先週、ちょいと熱海へ行ってきまして。

今年は梅の開花が1週間ほど遅れていると聞いて、人混みの苦手な迷道院は、あえて梅まつりの終わった「熱海梅園」へ。

狙いどおり人はまばらでよかったのですが、梅の花もまばらになっていて、開花は遅れても帳尻をちゃんと合わせるところは、さすが自然の営みです。
という訳で、満開の梅は熱海市のHPでご覧ください。

1万坪強の敷地に58種464本の梅の木があるという「熱海梅園」ですが、この梅園の造成に大きな力を尽くしたのは、茂木惣兵衛という高崎出身の人物なんです。

惣兵衛さんには、以前、「和風図書館と茂木銀行」にご登場頂いたことがあります。

惣兵衛の梅で、園内にはこーんな大きな石碑に、「茂木氏梅園記」と刻まれています。→

漢文で刻まれた碑の傍らには、これまた大きな看板に、振り仮名つきで読み下し文を書かれていますが、これすらちょっと難しくて。
惣兵衛の梅



ま、適当に拾い読みしてみましょう。
内務省衛生局長だった長與専斎(ながよ・せんさい)という人が、
「温泉が病気によく効くのは、その成分のせいだけではなく、適度な運動をするからだ。一日中室内に居て温泉に入っていても、養生にはならない。政府の命を受け『噏滊館
(きゅうきかん)』を造ったが、散策して心が和むような場所を持ってないのが残念だ。以前いい場所を見つけたのでそこを造成したいものだが。」と、語ったというのです。
右大臣・岩倉具視がヨーロッパ式の温泉医学療法を取り入れようとして建設した、日本初の温泉療養施設。現在のニューフジヤホテル別館アネックスの所にあった。

それを聞いた神奈川中山保次郎という県会議員が、横浜茂木惣兵衛に話を持ちかけたところ、惣兵衛は喜んでこれに応じ、地元の人と相談して造成を進めたということです。

碑文は続けて、
「茂木氏が最も多くの梅を植えたので、『茂木氏梅園』と称された。
茂木氏は富豪であるが、欲を極めるようなこともなく、かえって私財を投じてこの事業を成し、しかも私することなく公衆に開放するとは、実に偉大な人物である。」

と称賛しています。

惣兵衛の梅惣兵衛さんは、文政十年(1827)高崎の質商・大黒屋茂木惣七の長男として生まれました。
幼名は惣次郎といいましたが、天保八年(1837)十歳で新田郡太田の太物商・今井仙七の店に奉公し、後に抜擢されて支配人となり惣兵衛と改称しています。

嘉永五年(1852)二十六歳の時、桐生の絹物商・新井長兵衛家に養嗣子として入り、生糸や絹の販路拡大に商才を発揮しますが、嘉永七年(1854)に新井家を出て高崎に帰り、茂木姓に戻ります。

安政六年(1859)開港となった横浜に、惣兵衛は出ていきます。
武蔵国児玉郡出身の野沢庄三郎が開いた雑貨貿易店「野沢屋」で働きますが、文久元年(1861)庄三郎が病没した後の「野沢屋」惣兵衛が引き継ぎ、横浜随一の生糸貿易商となっていきます。
明治期に入ってからの銀行業については、「和風図書館と茂木銀行」に書いた通りです。

明治二十年(1887)の全国高額所得者一覧によると、華族を除けば、彼の岩崎弥太郎の子・久弥渋沢栄一住友財閥の吉左衛門鴻池財閥の善右衛門に次いで、堂々第5位に茂木惣兵衛がランクインしています。
「熱海梅園」が造成されたのは明治十九年(1886)ですから、まさに功成り名を遂げた時期だった訳です。

そんな大富豪・茂木惣兵衛の、篤志家としての人柄を顕わすエピソードが残されています。

惣兵衛さんは、横浜の学校設立や道路・堤防の修繕改築、上水道開通、救貧事業などに多額の寄付を行っていますが、そういう表立った行為とは別に、夜には枕元に火消しの法被を用意し、火事となると懐中に百円札を入れて現場に駆け付け、焼け出された者にそっと金を渡したといいます。

惣兵衛さんは明治二十七年(1894)享年66歳で他界しますが、葬儀は遺言により贈花・贈物を謝絶して質素に行われました。
葬儀を質素にした代わりに、近隣村々の貧民5000人に対して、施米料各50銭を寄付しているのです。

今度熱海へお出でになる機会がありましたら、ぜひ「熱海梅園」をお訪ねください。
そして、気骨ある高崎人・茂木惣兵衛のことを思い出してください。

(参考図書:横浜開港資料館編「横浜商人とその時代」)





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Posted by 迷道院高崎 at 09:00
Comments(2)◆出・たかさき
この記事へのコメント
高崎から熱海はすげーといいんね、
吉野藤作さんも凄いし、赤堀の本間家も父の
時代は全国高額納税者1位だったそうですが
夢の世界です、熱海の梅鑑賞とは、優雅です
Posted by wasada49  at 2013年03月17日 16:29
>wasada49さん

とわかった(遠かった)です、熱海。

惣兵衛さんは、寄付を頼まれて断ったことは一度もなかったそうです。
自分の所に入って来る金は、社会の皆さんから頂いたものだから、社会の皆さんのために使わなければならないという気持ちが強かったんでしょうね。
どこかの国の会社では、総理大臣が頼まないと給料も上げないようですが。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年03月17日 18:56
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    コメント(2)