小栗夫人一行が「野反池」のほとりを通過したのは旧暦の閏四月十二日、新暦では六月二日となります。
レンゲツツジは咲いていたのでしょうか。
権田村から夫人一行を護衛してきた10人に加え、道案内や駕籠方・荷役方・牛方として地元民9名が、これから先の秘境・秋山郷越えの難所に挑みます。
小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」には、同行した地元民の子孫からの聞き書きとして、次のようなエピソードが記されています。
このように大変な山行の末、一行がやっと信州・和山温泉まで辿り着き、疲れを癒すことができたのは、閏四月十三日のことでした。
和山温泉で二泊した後、再び山道を潜行して越後に入り、反里口(そりぐち)で一泊します。
この頃、東山道副巡察使・原保太郎、豊永貫一郎が、高崎・安中・吉井藩の兵を率いて、三国峠を越え会津討伐に向かっているという情報が、小栗夫人一行にもたらされます。
そして夫人の護衛隊は、驚くべき行動に出るのです。(続く)
レンゲツツジは咲いていたのでしょうか。
権田村から夫人一行を護衛してきた10人に加え、道案内や駕籠方・荷役方・牛方として地元民9名が、これから先の秘境・秋山郷越えの難所に挑みます。
小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」には、同行した地元民の子孫からの聞き書きとして、次のようなエピソードが記されています。
「 | 大倉峠の峰付近まで来たとき、山本芳五郎が酒手をゆする心算で、『ここから帰らせてもらう。』と帰るふりをしたら、夫人の家来が突然刀を抜いたので、 |
『おらあー、あんなおっかねえ思いをしたのは生まれて初めてだ!』と後に述懐したという。 |
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また渋沢から山駕籠に乗って、佐武流山麓から障子峰近くを通行中、疲労と悄愴に加えて妊娠八ヶ月余りのため、ストレスは極限状態に達していたのであろう。 | |
イライラした夫人が 『まだ秋山へは着かぬか。』突然駕籠の中から叫んだ。 『もうじきでがんす。』駕籠かきが答える。 また半刻もすると我慢に耐えきれぬように、 『まだ着かぬか。』 『はあ、じきでがんす。』 またしばらく行くと、 『まだ着かぬか。』 『はあ、じきでがんす。』 また暫く行くと、ますます夫人は苛立って、 『まだ着かぬか。』 『はあ、じきでがんす。』 |
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すると怒った小栗夫人は、 『お前たちは妖怪変化か!』と言うなり、懐剣を抜いた。 |
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山本芳五郎じいさんが、当時を振り返って話してくれたという。」 |
このように大変な山行の末、一行がやっと信州・和山温泉まで辿り着き、疲れを癒すことができたのは、閏四月十三日のことでした。
和山温泉で二泊した後、再び山道を潜行して越後に入り、反里口(そりぐち)で一泊します。
この頃、東山道副巡察使・原保太郎、豊永貫一郎が、高崎・安中・吉井藩の兵を率いて、三国峠を越え会津討伐に向かっているという情報が、小栗夫人一行にもたらされます。
そして夫人の護衛隊は、驚くべき行動に出るのです。(続く)