2020年01月19日

史跡看板散歩-172 棟高の胸形神社

高崎から三国街道(高崎-渋川線)を北上して、「堤下公園」を過ぎてすぐ東(右)へ入ると、「胸形(むなかた)神社」があります。


以前来た時は、桜の大木が枝を茂らせて鬱蒼としていましたが、だいぶ伐採されて、すっかり明るくなりました。
大きな常夜燈がポツンと建ってますが、以前は鳥居の正面辺りにあったそうで、道路拡幅のために今の位置に移動したということです。

常夜燈にはいろいろ文字が刻んであって、風化もしてなくてはっきりはしてるんですが、読めません。

「明治十六年」の上の字は、なんていう字なんですか?

字典で調べてみると、「旨」の異体字らしいんですが・・・。

ただ、意味のどれを当てはめてみても、ピンとくるものがありません。
何なんですか、「旨明治十六年」って。

字典をペラペラめくっていると、こんな字が目に止まりました。

これなら「明治十六年に献ずる」ということで、意味は通りそうです。
「旨」「享」の間違いですかねぇ。

これも右端の字が読めません。

辞典で探してみると、どうやら「黎」の異体字で、「多い」とか「諸々」という意味があるそうです。
ということは、「黎民歓」「諸々の民が歓ぶ」という意味になりそうです。

さらに、もうひとつ。
「世話人當所」の下、何て書いてあるんですか?

一番右は「壮」
2番目だけなぜか崩し字なんですが、「健」
3番目は、「乞」
4番目は、「社」
「壮健を社に乞う」ということ?
うーん、なんかよく分かりません。
どなたか、ご教示ください!

さて、史跡看板はその常夜燈の隣、古そうな双体道祖神に並んで建っています。



「胸形神社」のことについては、毎度のことですみませんが、過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(11)

看板の最後に、「正月の六日に行われる水的の儀」と書いてあります。
どんなものなのか知りたくて、元日の「胸形神社」へ行ってみたのですが、神社に関係してる方は一人もいらっしゃいませんでした。
お参りに来た方や、散歩中の地元の方にお尋ねしたのですが、どなたもご存じありません。

そんな中、お一人からこんな情報を頂きました。
「今日の上毛新聞の歳時記というのに、1月15日に胸形神社で弓で何かする行事があるって出てたよ。」と。
家に戻って、元日のたくさんの新聞の中から、見つけ出しました。
「2020 高崎くらし歳時記」というページでした。

そこには「強者弓始式」となっていて、看板にある「水的の儀」と同じものなのかどうかは、分かりません。

ネットでいろいろ調べていると、前橋「総社神社」では1月6日に「水的神事」というのが行われているということが分かりました。
「胸形神社」では1月6日に行われる行事はないことも分かりましたので、その日は「総社神社」へ行ってみました。
翌日の新聞にその記事が載りましたので、それをご覧ください。

新聞では「水的の式」となっていて、きっと「胸形神社」「水的の儀」も、その年の降水量を占う儀式なのでしょう。

そして1月15日、待ち望んだ「強者弓始式」を見に「胸形神社」へ行ってきました。

午後1時、氏子の方々は拝殿で修祓(しゅばつ)を受けてから「弓始式」に臨みます。

まずは神官から。

みごと的中です!

その後、氏子の方々全員が順番に矢を射ります。

中には的のど真ん中を射抜く強者もいて、驚きました。

神官は、石原町「小祝神社」西園勲宮司で、「胸形神社」宮司を兼ねています。
西園宮司にこの行事についてお伺いしたところ、「しばらく途絶えていて詳しいことは伝わっていないが、その年の作物の豊凶、降水量などを占うものだと思う。」ということでした。

社殿には弓の奉納額が掛かっていますが、これも「水的の儀」「強者弓始式」と関係があるのでしょうか。


宮司さんや氏子の皆さんのご厚意で、拝殿のなかに入れて頂きました。
奥に見事な天井絵があるのですが、手前に垂れ壁があるので、氏子さんたちもつい最近までその存在に気付かなかったそうです。


屋根のカーブが美しい本殿。


剽軽な形の御神燈は慶応三年(1867)、大政奉還そして王政復古の年に奉納されたものです。

幕末・明治のドタバタを、静かに眺めていたんでしょうね。

希わくは多くの民の歓びが満ち満つる平穏な世が、幾久しく続きますように、と祈って参りました。


【胸形神社】


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Posted by 迷道院高崎at 07:33
Comments(4)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2020年01月12日

史跡看板散歩-171 棟高・山王猿の石神と庚申塚

三国街道(高崎-渋川線)の「堤下公園前」の信号を東に入って道なりに270m、「天王川」の手前に、庚申塔やら青面金剛塔やらが集まってる一角があります。


ここが「棟高の庚申塚」で、その中に「山王猿の石神」があります。



以前訪れた時から早10年、あの頃は、史跡看板など建っていませんでしたから、近所の人に聞き回るしかありませんでしたが、それも今となっては懐かしい思い出です。
   ◇三国街道 帰り道(12)

せっかくなので、隣の「大乗寺」についても過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(13)
   ◇三国街道 帰り道(14)

ついでに、近くにある「真鹽紋彌(真塩紋弥)翁之碑」の記事も載せておきます。
   ◇三国街道 帰り道(6)
   ◇三国街道 帰り道(7)

点が線になるのが面白くって、はまり込んでた頃でした。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2020年01月05日

史跡看板散歩-170 棟高の観音堂と大師堂

三国街道(高崎-渋川線)を高崎から北上して棟高町に入り、しばらく進むとこんもりした森が現れます。


棟高「観音寺」跡です。


史跡看板は、「薬師如来堂」の隣に2つ建っています。


なお、この「薬師如来堂」は、飯島富雄氏著「観音寺誌 祖徳流芳」に、こう書かれています。
薬師如来は、明治年間観音寺地区の西南、薬師免と呼ばれている地点から観音堂境内に移されたもので、記念名は無いが専門家の鑑定によれば、室町時代のものと推定されると云う。
この佛様は眼を患っている人が自分の目をこすり、その指で如来の目をこすると快癒すると云う信仰があった。(略)
昭和六十年頃すっかり腐りはててみすぼらしいほこらを、当村田中正己さんが現在の立派なものに建替しものと云われている。
これは田中正己氏の奥さんが眼病を煩い、一日も早い全快を願っての建設寄進せしものと云われて居る。」

看板を見てみましょう。



ここも、9年前に訪れて記事を書いていますので、そちらをご参照ください。
   ◇三国街道 帰り道(1)

その記事では掲載しなかった、「観音堂」堂宇内外の写真です。



御神木の大杉です。

後ろに桜の古木が立ち並び、花の頃はすごくきれいです。

ここには、もう一つ、ぜひご紹介したいものがあります。
「薬師如来堂」の近くにある二つの大きな石碑、その左側の「豆腐来由碑」です。



どんな碑なのかは、過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(2)

碑の建立者・飯島靱負氏のことについても調べてみました。
   ◇三国街道 帰り道(3)

話は、これで終わりません。
   ◇三国街道 帰り道(4)

いやー、歴史探索って面白いもんです。


【棟高の観音堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
Comments(4)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板